Wat00360 「科学と報道」31 宇宙開発<その1>スプートニク・・

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科学朝日7月号に掲載された、
「科学と報道」31 宇宙開発<その1>スプートニク・ショック
です。

ご意見、ご感想がありましたら、関連発言の方にどうぞ。

                       すずき


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コラム [科学と報道] 31

宇宙開発 <その1> スプートニク・ショック

柴田鉄治        朝日新聞出版局次長/しばた・てつじ


 1957年10月5日土曜日の早朝、日本の通信社や新聞社は、モスク
ワから飛び込んできたビッグ・ニュースに騒然となった。ソ連が世界で最
初の人工衛星の打ち上げに成功したと、というタス通信の発表を伝える外
電である。
 朝日新聞社では、その年の5月に誕生したばかりの科学部に、全員集合
の緊急呼出がかかった。といっても、当時の陣容は、部長1、デスク1、
部員4という小さな所帯だったが・・・。
 半沢朔一郎部長らは、ただちに本社へかけつけた。半沢部長にとって、
それから18日間、本社に泊まり込むという“修羅場”の幕開けだった。
誕生以来、科学部が直面した最初の修羅場だったといっても過言ではない。
 タス通信の発表は、国際地球観測年(IGY)の一環として人工衛星を
打ち上げたこと、衛星は直径58センチ、重量83.6キロで、最高高度
900キロ、赤道面に対する角度65度の長円軌道に沿って一周95分で
地球を回っていること、衛星には20.005メガと40.002メガの
送信機が積まれ、アマチュア無線かでも受信できること、などを伝えた。
 科学部の奥田教久デスクは、この一報を耳にしたとき、「本当かいな」
と思ったという。その前年、ニューヨーク特派員として、米国の人工衛星
計画の現場を取材した経験から、打ち上げるならやはり米国が先だろうと
思っていたからだった。
 当時のソ連っは、何事にも秘密主義で、人工衛星成功の発表もやぶから
棒の報道だった。もっとも、あとから詳細に検討してみると、前ぶれがな
かったわけではない。たとえば、その2年前に「人工衛星の建造を研究中」
とのモスクワ放送の報道や、「2年以内に人工衛星をつくり、発射するだ
ろう」とのソ連学者の談話などが日本の新聞にも載っており、さらに4カ
月前には「人工衛星の準備終わる」、半月前には「まもなく打ち上げ」と、
報じられているのだ。
 ところが、これらの報道は、いずれも断片的で、多くのニュースの間に
埋没してしまい、また、人工衛星に関する情報量も米国からの方が圧倒的
に多かったため、なんとなく米国の方が先だろうと見られていたわけであ
る。それだけに、ソ連の突然の発表に、日本の新聞社内は大騒ぎになった。
 まず解説記事。少ない情報をもとに、米国の人工衛星計画のデータなど
も盛り込んで仕上げる。ついで電波。人工衛星からの電波を放送局がキャッ
チしたニュースが入ってくる。それ、次は写真だ。タス通信の発表の中に、
「双眼鏡、望遠鏡などにより日の出および日没時の太陽光線で観測ことが
できる」とあるのを頼りに、全国で日没時の空をにらんだ。
 だが、これは難物だった。ソ連は最初、人工衛星の発射場所も軌道も発
表しなかった。東京天文台指揮下の新潟観測班が望遠鏡で光跡をとらえた
というニュースが、翌6日の朝刊に大きく報じられたが、その日の夕刊に
は「新潟報告は見誤り」と載る、といった具合。 あっちで見えた、こっ
ちでとらえた、といった騒ぎが続き、朝日新聞のカメラマンが札幌市で撮
影に成功した光跡が紙面に載ったのは、なんと8日後だった。

     冷戦下、米国に激しい衝撃

 スプートニク・ショックは、日本の新聞社だけではない。当時は、冷戦
の真っ只中だっただけに、米国社会は与えた衝撃がことのほか大きかった。
それも、日を追って深刻さをましていったようである。  ホワイトハウス
の公式論評は、「ソ連の人工衛星は、すべての国々が求めている科学知識
に大いに寄与するもにである」と冷静そのものだったが、ジャーナリズム
の反応は「なぜソ連に破れたのか」と最初から厳しいものだった。
 米国にとって痛かったのは、この6週間前に、ソ連が大陸間弾道ミサイ
ル(ICBM)の実験に成功したと発表したばかりだったことである。I
CBMの方は、国民の目に見えなかったが、人工衛星は、頭の上をぐるぐ
る回っていることが実感されるだけに、ひときわ威信を傷つけられたわけ
である。それに、人工衛星の成功は、先のICBMの実験成功を確認する
ものでもあるため、二重の敗北感を味わったといってもいいだろう。
 それに、ICBMについては、それの軍拡を非難できても、人工衛星に
つては、米国自身が国際地球観測年の純粋な科学目的で打ち上げると再三、
宣伝してきたものだけに、ソ連を非難できない歯がゆさも加わる。
 週明けの7日、ニューヨークの株式市場は、航空機、ミサイル関係を除
いて大暴落した。米国の科学技術の優位は崩れたと、自信喪失、自嘲気味
の論調が強まり、米国社会は、ソ連の人工衛星のため、一種のノイローゼ
状態に陥ってる、という報道まで現れた。
 ソ連が社会主義体制の勝利だ、と例によって誇示したこともあって、米
国内の「敗因」の分析も、陸・海・空軍と開発体制がバラバラのせいといっ
た技術論から、しだいに社会体制そのものに問題があるのではないか、と
いう方向へ移っていく。
 最初は、中立国や開発途上国が、社会主義体制のほうが科学技術の発展
に適していると考えるのではないかと心配する論調だったのが、いつのま
にか、科学技術を育てる体制が悪いとなり、さらには、米国の教育制度が
よくないというところまでいってしまった。中・高校での数学教育が弱い
とか、小学校での一学級の生徒数が多すぎるとか、大まじめに論議された
のだから、いまからみれば、過剰反応というほかない。
 しかし、スプートニク・ショックがこれほどまでに大きかったために、
それをバネとして、米国の宇宙開発がその後、華麗な花を咲かせたのだと
考えると、過剰反応も無駄ではなかったといえようか。同時に、スプート
ニクを契機に、米国でも科学報道の重みが格段に大きくなったと指摘され
ている。

     存在感を高めた科学部

 スプートニクの衝撃は、日本の新聞社を右往左往させたが、同時に、ス
プートニク・ショックは、誕生したばかりの科学部の存在感を一気に高め、
社内での地位を確固たるものにした。
 スプートニク関係の外電が入ってくると、外報部はすぐに科学部に相談
に行く。また、紙面づくりの中核である整理部も、その記事の意味やニュー
ス価値について科学部に聞きにくる。そのほか、「人工衛星はなぜ落ちな
いのか」といった基本的な疑問をぶつけてくる新聞記者たちもいて、その
対応だけで大変な忙しさである。
 科学部長が18日間も社内に泊まり込んだのは、もちろん次に何が起こ
るかわからないという事件警戒の要素もあったが、一つには、「科学部が
いてくれないと困る」という社内の要請にこたえた面もあった、といえる
であろう。
 先にも記したように、科学部の生まれたきっかけは、原子力開発のスター
トだった。そのことから、科学部の生みの親は原子力、育ての親は宇宙開
発だ、ともいえようか。スプートニクで社内に根をおろし、その後の宇宙
開発の発展とともにすくすくと成長していった経過を見ると、その感が深
い。
 スプートニク・ショックのもう一つのエピソードとして、埋もれていた
一人の優れた科学ジャーナリストを世に送り出したことがあげられる。の
ちに朝日新聞の論説主幹まで務めた岸田純之助氏である。当時、『科学朝
日』の編集部員としてコツコツと勉強を積み重ねていた岸田氏は、「誘導
弾」の著書もあるロケットや宇宙開発の隠れた専門家だったが、スプート
ニクによって一気にジャーナリズムの前面に押し出された。「岸田氏はス
プートニクとともに軌道に乗った」と評する人もいる。
 まさに彗星(人工衛星?)のような登場だった。


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写真説明

ソ連誌に載ったスプートニク1号

 ソ連共産党機関誌「プラウダ」は、1957年
10月9日の紙面で、「資本主義との世界的競争
における偉大な勝利」 との論説を掲げ、その隣
に紙面の半分を費やしてこの写真を載せた。


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【感想】です。

 ソ連の事前の報道は必要最小限あったように読めるけれど、それでも埋没してしま
うほどの情報と、記者さん達は毎日格闘しているのですね。
 「人工衛星はなぜ落ちないのか」といった基本的な疑問に答えられるように、日夜
知識の獲得にも勉めなければならない。 その疑問には、「人工衛星は永遠に落ち続
けているのです」とでも答えたのでしょうか。しかし、決して「永遠」ではない、と
は気付かれていたのでしょうか。

 経済大国の日本くらいは、「老人(工衛星)問題」を考慮しての打ち上げ計画であ
って欲しいものです。

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