Wat00355 「科学と報道」29 南極観測<その2>再開

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科学朝日5月号に掲載された、
コラム「科学と報道」29 南極観測<その2>再開
です。

#351の続きになります。
ご意見、ご感想がありましたら関連発言の方にどうぞ。

                   すずき


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コラム [科学と報道] 29

南極観測 <その2> 再開


柴田鉄治        朝日新聞出版局次長/しばた・てつじ


 永田隊長ら第1次南極観測隊を乗せた「宗谷」は、1957年1月、リュ
ツオホルム湾の奥深く氷海に分け入って、東オングル島に「昭和基地」を
建設した。
 その年は比較的氷状がよく、オーロラ帯の真下で、立地条件がよい露岸
地域に基地を建設できたのは幸運だった。西堀栄三郎隊長ら11人の越冬
隊を残すことも成功。朝日新聞社から参加した設営担当と通信担当もその
中に選ばれた。「宗谷」は、帰途に氷海から脱出できなくなりかかったが、
ソ連の「オビ号」に救出されて、ことなきを得た。
 ところが、翌年、IGY本番だというのに氷状がきわめて悪く、基地へ
近づく前に「宗谷」が氷に閉じ込められて、動けなくなった。米国の「バー
トンアイランド号」に助けを求めたが、好転せず、ついに越冬隊を残すこ
とを断念。昭和基地にいた越冬隊員は、氷状偵察用として「宗谷」に積み
込まれていた朝日新聞の小型機でぎりぎり収容された。そのとき、基地に
いたカラフト犬まで収容するだけの余裕はなかった。
 こうした観測隊の動向に、日本中がハラハラし、現地からの報道に一喜
一憂した。そして、翌年、第3次隊が無人の昭和基地を訪れると、前年置
き去りにしたカラフト犬のうちタロとジロが生きているのが見つかった。
このニュースに日本中がわきにわく。いや、日本だけでなく世界中の話題
となった。
 3次隊は、前年の教訓からヘリコプターによる空輸作戦に切り替え、越
冬隊を残すことに成功。第4次、第5次と越冬観測がつづく。第4次越冬
隊の福島紳隊員が、昭和基地でブリザードの中、行方不明になるという悲
劇こそあったが、日本の南極観測も軌道に乗ったかにみえた。
 しかし、観測船「宗谷」の老朽化によって、第5次越冬隊を収容した第
6次隊をもって、南極観測はひとまず打ち切られたのである。

     「宗谷」から「ふじ」「しらせ」へ

 南極観測を再開するかどうか、中断のあと、さまざまな論議があった。
とくに、「宗谷」のあとの観測船をどうするかをめぐって、異論が続出し
たが、結局、海上保安庁に代わって海上自衛隊が輸送、支援業務を担当す
ることになり、砕氷船を新造することで再開にこぎつけた。
 こうして第7次観測隊が、65年11月、新観測船「ふじ」の処女航海
として、東京港をあとにしたが、この「ふじ」に、私は同行記者団の一人
として乗り込んだ。7次隊になっても、南極報道の基本線は、新聞協会の
協定にもとづく代表取材という性格は変わらなかったが、少し変わったと
ころもあった。一つは、「宗谷」時代には、同行記者も隊員の一人に身分
を変えて参加していたのに対し、「ふじ」では記者の身分のまま、オブザー
バーという形で参加できることになったことである。
 もう一つは、朝日新聞と共同通信のほか、NHKのカメラマンが代表取
材に加わったことだ。マスメディアの中で、テレビの比重が飛躍的に大き
くなってきたことを物語っている。
 私が同行した7次隊の役割は、閉鎖していた昭和基地をよみがえらせ、
一段と拡充し、今後の活動を軌道に乗せることだった。「ふじ」の砕氷力
は予想以上に強力で、初の昭和基地接岸をやってのけ、
再開作業もすべて順調に進んで、昭和基地は「山小屋風」から「小都市風」
に一変した。オブザーバーとはいっても、同行記者団も隊員と一体になっ
て、一作業員として建設事業に従事したことは、いうまでもない。
 同行取材で最も印象深かったのは、なんといってもペンギン、氷山、白
夜・・・といった南極の大自然の素晴らしさである。が、もう一つ、その
大自然の中でくりひろげられる人間模様も実に感動的だった。昭和基地の
再建を終えて帰途につく前、両隣の外国基地を訪ねたときの話である。
 まず、東隣のソ連のマラジョージナヤ基地へ。近づいた「ふじ」から無
線で「訪ねたいが・・・」と連絡すると、「どうぞ、どうぞ」との返事に、
さっそくヘリコプターでひと飛びする。言葉はほとんど通じないのに、身
ぶり手振りで心温まる交流がつづいた。そのあと、西隣のベルギーのロワ
ボードワン基地へ向かうと、今度は、ベルギー隊のほうから雪上車と犬ゾ
リで「ふじ」を訪ねてきた。船上で、また心温まる隊員同士の交流がつづ
く。
 南極は世界で唯一国境のない大陸である。こうした各国基地の訪問にパ
スポートもいらなければビザの必要もない。まさに「人類は一つ」の理想
を実現した地である、と実感した。
 私は、その2年後、第9次隊が実施した昭和基地から南極点までの「極
点旅行」を取材するため、米国隊の航空機で再び南極を訪れたが、そのと
きも心温まる国際交流を体験し、人類理想の地を再度、実感した。
 米国の南極点基地は、当時、すっかり氷の中に埋まり、古びた地下街の
ような様相だったが、日本の旅行隊が到着すると、米国隊員は自らのベッ
ドまで旅行隊に提供して大歓迎した。旅行隊の到着に合わせて私たち報道
関係者まで極点基地に招いてくれた好意も忘れられない。
 日本の南極観測は、この極点旅行を最後に、探検的な側面が薄まり、地
道な学術面に重点が移って、報道もしだいに扱いが小さくなっていく。N
HKがカメラマンを越冬させてドキュメンタリーを作成した第10次隊以
降、報道関係者の同行取材もしばらく途切れる。 その間、昭和基地では、
オーロラに直接、観測ロケットを打ち込む研究とか、南極大陸での大量の
隕石の収集とか、世界的にも注目をあびる実績が地道に積み重ねられてい
き、観測船も第25次隊から3代目の「しらせ」に代わった。昭和基地も
大陸部に「みずほ観測拠点」、「あすか観測拠点」を新設して、一段と拡
充されていく。

     先駆的な生中継や空路開拓

 10次隊以降の南極報道で特筆すべき動きが二つある。一つは、78〜
79年の第20次隊に、NHKが大勢のスタッフと機材を送り込んで、南
極からの生中継を実現させたことである。
 生中継は、昭和基地からインド洋上空の通信衛星「インテルサット」を
中継して日本に送られてきたものだ。NHKは、この衛星中継を活用して
ゴールデンアワーに、ほぼ一週間ぶっ通しの番組を組み、南極とお茶の間
を一気に身近なものにした画期的な報道だった。 同時に、この放送は、
携帯用の中継機材さえ運べば、世界中どこからでも生中継ができることを
実証した先駆的な実験でもあった。この時、NHKは、キャスター以下1
1人のスタッフを「ふじ」に同乗させて送り込んだが、その後、機材は小
型化し、いまではもっと少人数で簡単に使えるようになっていることは、
先の湾岸戦争の報道でも如実に示されたところだ。
 南極報道でのもう一つの快挙は、87〜88年にかけて朝日新聞とテレ
ビ朝日が共同で企画した昭和基地への空路開拓である。北極飛行に経験の
深いカナダの航空機をチャーターし、村山雅美氏を隊長とする両社の取材
チームが乗り組んで、南米のチリから南極半島のチリ基地へ、さらに英国
基地、西独基地と飛び石づたいに昭和基地まで飛んだ。帰途は、その逆を
たどって、初の航空機による昭和基地訪問を実現したわけである。
 昭和基地までの空路が開ければ、観測隊員を運ぶ時間を短縮できるだけ
でなく、万一の場合の救急輸送も可能になる。これから間違いなくやって
くる南極航空時代への第一歩を切り開いた意欲的なプロジェクトだった。


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写真説明

 朝日新聞とテレビ朝日の共同企画で、カナダの航空会社
からツインオッター機をチャーターし、南米のチリから南
極のチリ基地、英国基地、西独基地と飛び石づたいに昭和
基地を訪問、初めて空路を開拓した。写真は、昭和基地近
くの大陸上で、「しらせ」搭載ヘリコプターの出迎えをう
ける「朝日南極飛行隊」機=88年1月7日、関口特派員
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