Wat00351 「科学と報道」28 南極観察<その1>発端

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     科学朝日4月号に掲載された、
     「科学と報道」28 南極観察<その1>発端 です。
     今回より新シリーズです。
    ご意見、ご感想がありましたら、関連発言にどうぞ。

                     すずき


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コラム [科学と報道] 28

南極観察 <その1> 発端

柴田鉄治        朝日新聞出版局次長/しばた・てつじ


 1955年3月中旬から下旬にかけて、朝日新聞の社会面に「北極と南
極」という記事が13回にわたって連載された。前月末まで長々と続いた
衆議院選挙の報道から、気分を一新するために企画された記事だった。
 この取材班の一人に、矢田喜美雄記者がいた。ベルリンオリンピックの
走り高跳びの選手として活躍し、朝日新聞の社会部記者となってからも、
49年の下山事件を深く鋭く追求して、後年、その関連の著作や脚本など
の作者としても知られた記者である。
 矢田記者は「北極と南極」の取材の中で、57年7月から58年12月
までの国際地球観測年(IGY)に、世界の科学の先進国が協力して南極
大陸の学術調査にあたる計画があることを知った。IGYの計画は、南極
大陸を特別調査地域に指定して、各国があちこちに分散して観測地点を設
け、謎に包まれた氷の大陸を一気に解明しようというものだった。したがっ
て、できるだけ多くの国の参加が望まれていると知った矢田記者は「日本
も参加できないだろうか」と考えた。
 日本の地球物理学の水準は世界的にも高く、日本の学者を動員できれば、
世界にも貢献できる。それに、人類史上初めてのこのスリルに富んだ科学
活動は、報道の対象としても素晴らしい。そう考えた矢田記者は、「朝日
新聞の事業として、この計画を推進してはどうか。白瀬探検隊の縁もある
ことだし…」と上司に提案した。
 白瀬矗氏を隊長とする南極探検隊は、ノルウェーのアムンゼンと英国の
スコットが激烈な南極点一番乗り競争を展開した1912年に、わずか2
00トンの「海南丸」で南極ロス海の棚氷に接岸、南緯80.5度まで進
んで、その周辺を「大和雪原」と名づけた。その時、社会の冷ややかな空
気の中で、国民に基金を募り支援したのが朝日新聞だったのである。
 提案を聞いた朝日新聞の幹部は「それは面白い」と矢田記者と当時の
「科学朝日」編集長、半沢朔一郎記者にさらに詳しく調査するよう指示し
た。両記者は、まず関係者にあたったところ、全員から賛成の意見をえた。
当時の日本学術会議会長、茅誠司氏の「日本の学会として考えるべきこと
を朝日から教えられた感じである。ぜひ実現したい」、IGY特別委員全
日本代表の、東大教授、永田武氏の「われわれは『とても行かれぬ』と考
えてしまって、あきらめていた。それがかなうとは願ってもない計画であ
る」といった談話が記録に残っている。
 55年5月2日、茅、永田両氏らと朝日新聞社幹部との話し合いが行わ
れ、「この計画は日本学術会議がやる。それを朝日新聞が後援する」と合
意された。ここに報道主導というユニークな形で日本の南極観測が実現に
向けて一歩を踏み出したわけである。

     報道主導から国家事業に発展

 といっても、すんなり進んだわけではない。矢田記者らの当初の考えで
は、設営関係を全て朝日新聞社が担当しようというものだったが、検討が
進むにつれて、とてもそんなわけにはいかないことがはっきりしてきた。
派遣船にしても一隻チャーターして白瀬隊のようにロス海の棚氷にでも接
岸できれば、と考えていたのが、観測地域に国際的な割り当てがあるため、
本格的な砕氷船が必要なこともわかってくる。また、やるからには越冬隊
を残さねばと規模もどんどんふくらんんでいく。
 当初の朝日案は撤回され、しだいに国家事業の性格が強まっていったが、
とはいっても、国にしても担当する機関もなければ、情報ももっていない。
したがって、具体的な準備作業は事実上、朝日新聞社の手によって進めら
れた。IGY特別委員会の正副会長あてに参加の意向を表明する書簡の作
成から、7月の南極パリ会議に提出された日本のとりあえずの計画案も、
朝日新聞のパリ支局を通じて届けられた。さらに、文部省から出された南
極観測のための最初の予算要求まで、その原案は、同省の求めに応じて矢
田、半沢両記者が徹夜で作成したものだった。
 十指にあまる関係分野の学者たちとの打ち合わせ、文部省との折衝、主
要閣僚への支援要請など、大がかりな根回しが続けられたにもかかわらず、
こうした動きが約4カ月間、他の報道機関にはまったく気づかれず、極秘
のうちに進んだことは驚くべきことだった。 南極パリ会議に名乗りをあ
げたとき、パリ発の外電が「IGY南極調査に加わる新顔としてソ連、南
ア、ベルギー、日本の4カ国が登場した」と打電してきたが、その時も各
紙は気づかなったのか、どこも報じなかった。
 朝日新聞としては、9月のブリュッセル会議で国際的に認められたあと、
学術会議が行う正式発表を待って劇的に報道したい考えだった。が、さす
がにそこまでは待てず、7月14日付朝刊に南極観測の「第一報」が載る。
ただ、それは「日本の南極探検参加、学術会議検討を始む、特別委を設置、
委員長に永田博士」という穏やかな内容の囲み記事だった。
 学術会議の正式発表をうけた9月27日付朝刊の朝日新聞は、まさに歴
史に残る紙面となった。1面の3分の2を南極関係の記事で埋め、真ん中
に6段という異例の大きさの社告を置いて「本社、南極観測の壮挙に参加
 全機能をあげて後援」と内外に宣言した。中を開くと4ページにわたる
特集。「各界の期待」と題して、首相、文相、運輸相から、与野党の代表
まで、ずらりと応援の弁がならび、「南極というところ」「日本はこうす
る」「国際地球観測年とは」と、南極一色である。
 この日を期して朝日新聞の猛ハッスルが続く。記者を捕鯨船に乗せて南
極海の様子を報じたり、別の船には無線技師を乗せて南極からの写真電送
のテスト、また、航空部員を派遣して南極での飛行訓練、といった具合。
圧巻は、北海道の涛沸湖で行われた朝日新聞社主催の隊員訓練で、氷上で
建物を組み立てる様子などが、これまた大きく報じられた。また、自らも
1億円を寄付すと同時に、読者からも基金を募った。

     優先権で紛糾、報道協定結ぶ

 敗戦から10年、日本もようやく廃虚から立ち直り、生活にも少し余裕
が生まれて世界に目が向きはじめたときだっただけに、南極観測のニュー
スは国民から熱狂的に迎えられた。そうなると、各社も黙っていない。普
通は一社が力を入れる企画には、他社は冷ややかになるケースが多いのだ
が、南極観測の場合はそうはならなかった。各社が競って報道したため、
国民の関心はますます高まり、熱気が盛り上がった。
 そうしたなかで、焦点として浮かび上がってきたのは、現地からの報道
をどうするか、という問題だった。当然、朝日新聞社としてはこれまでの
経緯をもとに報道の優先権を主張する。それに対して、各社がそうはさせ
じと巻き返す。「いかに朝日新聞が提唱し、後援しているといっても、初
年度の予算だけでも6億円を超す国家事業になったのだから、朝日の独走
は許されない」というのが各社の言い分だった。
 観測船には、紆余曲折のすえ、海上保安庁の燈台補給船「宗谷」を改装
して使うことが決まったが、収容人員には限りがあり、報道各社からの特
派員を送りたいという要請にはとても応じられない。そのため、学術会議
や文部省の南極推進本部を舞台に、報道各社の綱引きが展開され、最後は
新聞協会での協議に持ち込まれた。
 新聞協会で最終的にまとまった報道協定は、報道隊員として朝日新聞か
ら1人、共同通信から1人の計2人が参加、基本的なニュースについては
全社が使えるプール原稿とし、朝日新聞に対しては全体の3分に1を超え
ない範囲で特電を認める、という形になった。報道協定には「宗谷」の寄
港地での取材についてまで取り決められており、報道各社の綱引きがいか
に激しかったかを物語っている。


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写真説明

日本の南極観測は、朝日新聞の提唱による国家事業として
スタート、海上保安庁の燈台補給船を改装した初代の南極
観測船「宗谷」が第1次観測隊を乗せて1956年11月
8日、東京・晴美港を出航した。翌57年1月、昭和基地
を建設