Wat00344 「科学と報道」26 体外受精<その5>日本・・

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科学朝日2月号の
「科学と報道」26、「体外受精<その5>日本第一号」です。
#341の続きです。

ご感想などがありましたら、関連発言のほうにお寄せください。

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コラム [報道と科学] 26

体外受精 <その5> 日本第1号


柴田鉄治        朝日新聞出版局次長/しばた・てつじ


 1983年3月14日、東北大学医学部産婦人科教室、鈴木雅洲教授の
チームが、日本で初めて体外受精の着床に成功した、と発表した。母親は、
卵管性不妊症で、結婚後8年間、子供が生まれなかった30歳の女性で、
超音波断層診断で心拍動を確認し、着床成功がわかったという。
 体外受精は、それまでの海外での実績によると、着床したら必ず出産と
いうわけではなく、着床後に流産したりして、無事に出産までこぎつけら
れなかったケースも少なくない。その点、妊娠2カ月で「着床成功」の発
表は、やや早すぎるきらいもあったが、なにせ日本の第1号だけに社会の
関心も高く、このニュースは、同日の夕刊1面トップで「順調なら秋にも
産声」と一斉に報じられた。
 不妊の夫婦にとっては朗報であり、また、先端医療の新しい道がきりひ
かれた歴史的瞬間でもあるのに、この「着床成功」を報じる新聞などのトー
ンは、必ずしも「明るいニュース」という扱いではなかった。例えば、見
出しに使われた言葉をざっと拾ってみても「倫理に複雑な波紋」「不妊症
には福音だが…『人工の手』なお疑念」「範囲は、悪用の歯止めは」「論
議をつくしたか」といった具合である。
 体外受精がいかに生命を操るきわどい技術であるとはいえ、世界で初め
てというわけでもなく、しかも、本来おめでたい話であるはずのこのニュー
スが、なぜそんなトーンの報道になったのか。おそらく、このニュースの
背後に先端医療をめぐる先陣争いの「におい」があったからだと思われる。
 というのは、前回、記したように、徳島大学では体外受精に取り組むに
当たって、学外者も加えた倫理委員会をすでに発足させ、さまざまな角度
から検討を続けていた。この事実を東北大でも知っていたはずなのに、そ
んな手続きを一切とばして、一直線に実施へ踏み切っていたからである。
 さらにいえば、当の鈴木教授が会長を務める日本産科婦人科学会でも体
外受精の「統一倫理基準」を定める作業を進めていたが、それも待たずに
実施した。鈴木教授らのチームは、教室独自の「憲章」を定めて取り組ん
だというが、そこには「第3者の目」は注がれれていなかった。
 すべての点で、徳島大学とは対照的な姿勢だったといえよう。

     実名を報道した毎日新聞

 それはともかく、この体外受精児が無事に育って、同年10月14日、
日本の第1号が誕生した。体重2544グラムの女の子で、予定より15日
早く、帝王切開での出産だった。一時、心拍数が半分に減るという危機も
あったが、緊急手術で無事に乗り切った。
 この誕生のニュースは、文字通りの「おめでた」だけに、報道のトーン
も明るく、激励調になった。「不妊の悩みに朗報」「母子ともに元気」
「危機乗り越え産声」「喜びの夫婦、夢のまた夢かなう」といった調子で
ある。
 ところで、この日本初の体外受精児誕生をめぐる報道で、思わぬ波紋を
広げる出来事があった。体外受精児を産んだ夫婦の実名を、毎日新聞が報
じたことである。
 夫婦は宮城県内の農村地区に住んでおり、周囲の目など気遣って、名前
が出ないよう強く望んでいた。そのことは、鈴木教授を通じて報道関係者
にも伝えられ、体外受精児チームも患者の名前を一切明らかにしてこなかっ
た。
 さらに、夫婦は、子供が生まれたとき鈴木教授を通じて手記を発表し、
その中でこう訴えた。
 「…3月にマスメディアで報道されたときの驚きは計り知れないものが
ありました。倫理が正面切って取り上げられたのです。私たちが何か悪い
ことをしたように感じられました。…さらに、生まれてくる子供に対する
影響を心配するようになりました。もし、私達が公になれば、子供の将来
はどうなるのだろう。生まれたその日からマスコミに騒がれる人生を送る
のではないだろうか。私達はそうはさせたくない。私達には子供の人生を
決める権利はないのです。どうか静かに見守ってやって下さい。お願いし
ます。……」
 この手記の掲載が、期せずして、なぜ実名を報道しないかという「おこ
とわり」の役を果たす形となった。もしこれがなかったら、英国の第1号
はルイーズちゃん、米国の第1号はエリザベスちゃん、と実名で報じられ
てきた外国のケースと比べて、読者から疑問の声が寄せられたかも知れな
い。
 ところが、毎日新聞は、夫婦の手記を全文載せたうえ、あえて実名報道
に踏み切り、なぜ実名報道するかという「おことわり」をその日の紙面に
掲載した。
 「報道の基本は実名主義であって、これまでも画期的な医学的達成、た
とえば心臓移植の第1例などは実名報道をしてきました。今回の体外受精
は、不妊の人たちに大きな希望を与えるものですし、多くの人たちが明る
いニュースとして受けとめ、祝福しております。今後、この不妊治療法は
医学会に定着する見通しです。その際、生まれてくる体外受精児が特別扱
いされないようになるためにも仮名にしない方がよい、と考えました。
 ところが、この実名報道に、読者から批判や抗議が殺到する。

     論議不足で後味悪い結末に

 毎日新聞では、こうした抗議の声にこたえ、4日後の紙面で、釈明とも
いうべき記事を載せた。1つは『記者の目』という欄で、取材した第一線
記者が、「倫理批判は医学関係者の話で、患者とは無関係であり、一時的
には好奇の目で見る人がいるかもしれないが、全国39万人の卵管性不妊
症への朗報なのだから、喜びを隠さず、『私は体外受精でこんなに立派な
赤ちゃんを生みました』と、自ら秘密のカーテンを開いてもらいたい」と
訴えたもの。
 もう1つは、『デスクの目』という欄で、編集委員が実名報道にいたる
経緯を記している。それによると、実名か匿名かの議論は誕生のほぼ1カ
月前から始まり、第一線の記者の間では匿名論が支配的だった。しかし、
編集局幹部の討議で「不妊の人たちへの明るいニュースであり、体外受精
児が特別扱いされないためにも実名報道すべきだ」という意見が出て、結
局、当人の希望より実名を優先させることにした、としている。
 毎日新聞の主張は、それなりに理屈も通っていたが、現実の問題として
期待とは逆の方向に事態は進んだ。名前が公にされたため、周囲の目を気
遣ってか、当の夫婦は退院しても家に帰らず、結局、村を出た。東北大学
の産婦人科教室ににも、患者の秘密がどうして守れなかったのか、という
批判の声が寄せられ、同教室も途中から「容態発表をしない」と態度を硬
化させる場面もあった。
 当事者も報道関係者も、ともにあと味の悪い結果となったが、なぜこん
なことになったのか。原因を突きつめていくと、論議をきちんとつくさな
いまま、第1号の誕生を迎えてしまった「論議不足の弊」が、浮かびあがっ
てくる。
 体外受精のような「きわどい技術」の臨床応用は、密室の中では進めら
れてはならない。そのことと、患者のプライバシーを守ることとは全く別
のことなのだが、それが十分に整理されないで、産婦人科チームはひたす
ら患者の名前を隠すことに必死となった。一方、隠されると、追求したく
なるのはジャーナリズムの性癖である。毎日新聞の方も、「体外受精の治
療を受けるのは少しも恥ずかしいことではない」(デスクの目)はずとい
う考え方から実名主義の原則論で突っ走ったわけである。
 第1号の誕生前に、報道も含めた十分な社会的論議がなされていれば、
あと味の悪い思いはしなくてもよかったのに、と思わざるを得ない。翌年
4月に出された徳島大学倫理委の結論が、その辺まできちんと整理された
ものだっただけに、残念な思いが残る。


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写真説明

●日本第一号の誕生
日本の体外受精第一号は、1983年10月14日、東北
大学医学部産婦人科教室、鈴木雅洲教授らのチームによっ
て、同大学付属病院で誕生した。母親は宮城県内に住む3
0歳の女性で、卵管性不妊で結婚後8年間、子どもができ
なかった。写真は、医学部大会議室で誕生の発表をする鈴
木教授(右から2番目)ら。