Wat00303 「科学と報道」21  心臓移植<その9>暴走のツケ

#0000 kita     9008091630

  科学朝日に連載中の「科学と報道」(9月号)を関連発言に掲載します。
  「心臓移植」シリーズの9回目は「暴走のツケ」               北村

#0001 kita     9008091632

  コラム[科学と報道]21

  心臓移植  <その9>  暴走のツケ


  柴田鉄治                朝日新聞出版局次長/しばた・てつじ


 1968年8月の札幌医大、和田寿郎教授による心臓移植の第1
例が行われてから22年。いまだに、日本では第2例が行われてい
ない。その間、外国ではすでに6000例を超え、いまや治療方法
の一つとしてすっかり定着した感があるのに、なぜ日本では心臓移
植が行われないのか。この問題を考察してこの項をひとまず終わり
たい。
 実は、88年3月に実施した朝日新聞の世論調査で、この問題を
ずばり聞いたことがある。質問は「心臓移植は外国では行われてい
ます。日本では20年前に一度行われただけで、その後は行われて
いません。こうした違いがあるのはどうしてだと思いますか」とい
うもので、回答はあらかじめ用意した項目の中から選択してもらっ
た。
 結果は次の通りである。「命や死に対する考え方が違う」28%、
「脳死を世間が認めなかった」20%、「移植に抵抗を感じる人が
多い」17%、「最初の移植が社会的な問題になった」9%、「医
学水準に差がある」9%、「医学関係者が慎重だった」5%、「医
者が信頼されていない」3%の順である。
 日本人の死生観には独特のものがある、とよくいわれる。たとえ
ば、外国で航空機事故があったとき、日本人乗客の遺族と外国人遺
族とでは、遺体に対するこだわり方がまったく違うというのだ。遺
体の収容に非常に熱心な日本人と、それほどこだわらない外国人と
いう図式である。
 これは、生活慣習のほかに宗教とも密接に関係しているといわれ、
「こころ」と「身体」とは別と考えるキリスト教と、切り離しては
考えない仏教や神道との違いだと説明する人も少なくない。遺体に
も霊が宿っていると神聖視するところから、遺体を傷つけたくない
という心情が日本人にはひときわ強いのだ、ともよくいわれるとこ
ろである。
  「脳死を世間が認めなかった」というのも「移植に抵抗を感じる
人が多い」というのも、一歩踏み込んで考えれば、日本人の特異性
を指摘するものとして、同じ部類に入るとみてよいだろう。合計す
れば3人のうち2人は「日本独特の死生観が心臓移植をストップさ
せている」とみているわけである。
 専門家の間でも、こういう見方をする人は少なくない。自民党の
「脳死・生命倫理と臓器移植問題調査会」が各界の意見を聞いてま
とめた『脳死と臓器移植−−日本で移植はなぜできないか』と題す
る本が出ているが、編者の中山太郎氏も「それは、日本人独特の死
生観が背後に深く横たわっているからである」と結論づけている。
 一方、「最初の移植が社会的に問題となった」−−すなわち、和
田移植が殺人罪で告発され、不起訴にはなったものの、社会的に厳
しく糾弾されたことが尾を引いているとみる人は、予想外に少なか
った。20年もたったので、その印象が薄れたのだろうか。


              「何をびくびく」としかる和田教授
               ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ところで、当の和田教授は、第2例が日本で行われない理由をど
うみているのか。和田教授は月刊『バンガード』という雑誌に「一
外科医のあゆみ50年」と題する自伝的手記を連載しているが、8
9年12月号でこの問題に対する見解をはっきり記している。和田
教授は、日本だけが立ち遅れたのは心臓外科医に勇気がなかったか
らだときめつけ、移植のチャンスは少なくとも6回あったのに、そ
のことごとくを逃してしまったと批判している。
 最初のチャンスは、和田移植のとき。あとに続く人がいなかった。
2回目は、和田移植が告発されて不起訴になったとき。「同じやり
方で移植をしても罪にならないことがはっきりしたのに、このチャ
ンスもみすみす見逃してしまった」。3回目は、拒絶反応抑制剤
「サイクロスポリン」の使用許可が出たとき。4回目は、日本医師
会の生命倫理懇談会が脳死と臓器移植を認める報告書を出したとき
だという。
 5回目のチャンスは、米国から脳死者の腎臓を186個も飛行機
で送ってもらったとき。この米国人の善意を移植再開のきっかけに
できなかった。最後のチャンスはいまだ。「あらゆる面で機は熟し
ている。……ひとえに医者の決断が迫られているのが今だ」と述べ
ている。
 和田教授は「いつの時代、いかなる分野でも血みどろになって道
を切り開く先駆者が必要なのではないか」とし、「国民のコンセン
サスが得られば……などとのたまっているのは、無為無策の口実で
しかない」「なにをびくびくしているのだ」と外科医を叱っている。
 さらに「よく、日本には儒教や仏教の影響があるから、という言
い方がなされる。だが、タイは熱心な仏教徒の国だ。日本人の宗教
上の理由は言い訳にすぎぬことは明らかであろう」「脳死法とか心
臓移植の法案ができてからやろうというのは、医の心が法律の下に
置かれることになる。法律は現実にそって修正していくものなので
ある」とも記している。


                  医師への信頼感回復こそ課題
                   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 心臓移植で「暴走」した当人の言葉として聞くと、ひっかるとこ
ろもあるが、その主張にはなるほどと思うところも少なくない。と
くに、第1例以来、日本で心臓移植が行われていない理由は、日本
人の宗教などとは関係ない、と断じているところは私も同意見であ
る。先の世論調査でも示されたような、日本人独特の死生観のせい
だとする見方は、すこし違うのではないか、と私は思っている。
 たしかに日本人の心情には、外国人と違う独特のものはあるが、
移植医療に対して正反対の態度をとるほど違っているとは思えない。
現に、社会慣習や宗教が違うといっても、日本は西欧型の近代医学
を完全に取り入れているし、また、遺体へのこだわりが強いといっ
ても、「火葬」のような制度を抵抗なく受け入れている。日本人の
死生観の違いが20年の空白を生んだとは、どうしても考えられな
いのだ。
 では、なぜ日本だけが行われないのか。私は、やはり、第1例の
「暴走」の後遺症が尾を引いているからだ、と考えている。ふつう
20年もたてば、たいていのことは忘れられてしまうのだが、不幸
なことに心臓移植は第三者の死がなければ成り立たない本質的に「
きわどい医療」であり、和田移植の「暴走」は、そのきわどさを際
立たせてしまったのである。同時に移植は医師に対する信頼感が不
可欠な医療なのに、和田移植は、その信頼感を根底のところで打ち
壊してしまった面があるからだ。
 日本の医学水準はけっして低くはなく、やろうと思えばいつでも
やれたはずである。それを心臓外科医が躊躇してきたのは、和田教
授がいうように殺人罪の告発を恐れたからではなく、医師に対する
信頼感をさらにゆるがすことを恐れたからではなかろうか。移植医
療というのは、結局、医師と患者との信頼関係のうえに成り立つも
のだからである。
 そのことをはっきり示すような記事が、『月刊Asahi』90
年2月号に載った。米国留学中に事故で脳死した息子の臓器を、6
人に提供した父親の慟哭の手記である。このなかで、父親は、死に
直面した患者に対する医師の懸命な治療があって、それに対する家
族の感謝の気持と信頼の念が臓器の提供につながったことを、切々
と述べている。
 日本でもまもなく、心臓移植が行われ、20年余の空白もしだい
に埋められていくにちがいないが、先端医療の分野でのたった一つ
の「暴走」が、こんなにまで大きなツケを残すことになるのだとい
う事実を、われわれは、和田移植の教訓として、忘れてはならない
だろう。

#0002 kita     9008091632

写真説明

    ●和田教授の自伝的手記
      月刊誌『バンガード』に連載されている和
      田寿郎・元札幌医大教授の記事。「6回の
      チャンスをことごとく逃した」と心臓外科
      医をしかっている