Wat00115 THE脳死・移植

#0000 ultra7   8901261944

医学の最先端の「脳死・移植」の討論広場であります。

#0001 ultra7   8901261945

 「脳死」や「臓器移植」って、騒ぐけど結局なにが問題なのでし
ょうか。

 ????? 「脳死」っていうくらいだから、もう死んでるわけ
でしょうから、死んでる人の臓器を摘出することになにか問題があ
るのかなあ。「移植」だって、移植をしないと死んでしまう人を、
移植をして命を救おうというのだから、良いことだと思うけど、な
にが問題なのかな・・・・。 ??????

 などと漠然と思っている人が、結構多いのではないでしょうか。
「脳死」「臓器移植」といっても、一生なんの関係も無く過ごす人
の方が多い訳だし、「ドカンといけばハイそれまでヨ」といった問
題点がまだクリアな(まあ、本当は余りクリアじゃないけど)原発
問題などと比べて、一体何を議論しているのか、大体何を議論すべ
きなのかも、見通しがえらく悪い問題です。

 反面、この問題は議論しやすい面も持っています。というのは、
もはや、なんとなく大きな声では「賛成!」といいにくい状態とな
っている原発問題などと比べ、社会の目を気にせず、賛成、反対の
立場をまったく自由にまだ取れる、という点です。

 もうひとつには、問題自体の性格が倫理的、論理的なものであり、
それほど多くの知識がなくても、「常識」だけで参加できるとい
う点です。

 私自信一体何が問題なのか、ならば、どうすればいいのか考えつ
つ、取材をしている毎日です。このコーナーは、そんな市民の立場
から、この「脳死・移植」問題を考えてみるために、設けたコーナ
ーです。

 よろしく!

#0002 ultra7   8901261948

 まずは、私が思い付くまま、話し合うべきどんな問題があるのか、
ランダムに書き並べてみますので、議論の口火の参考にして下さい。

 1)死の定義とはなにか。また、元々定義ができるものなのか。
定義もなしに話し合うのは、無意味か。

 2)人の「死」には、医学的な死や生物学的な死、個体死、社会
的な死など種類があるのだろうか。これらは、どう違い、また、分
けて議論すべきものか。

 3)大体、脳死は人の死なのだろうか。本当に死んでいるのだろ
うか。

 4)脳死すると本当に生き返らないのだろうか。絶対生き返らな
いなんて言えるのだろうか。また、脳死患者に意識がないって、な
ぜ言えるのだろうか。

 5)どうすれば、脳死してるって間違いなく分かるのだろうか。
竹内基準で十分なのだろうか。

 6)脳死患者が、生き返らないとしても、それで臓器摘出をして
いいのだろうか。「生き返らない」と「死んでる」というのは、同
じなのだろうか

 7)もし、臓器摘出が許されるとするなら、それは「死んでる」
からなのだろうか

 8)脳死が人の死としても、それで臓器摘出が許されるのだろう
か。脳死患者には、何をすることが許されるのだろうか。例えば、
生きてる「血液工場」にして使ってもいいのか。

 9)許す、許さないとか言っても、誰が許すのだろう。決定権は
誰が持っているのだろう。医師会か、厚生省か、個人の医師か、国
民か。

 10)人の死は、法律で定めるべきものなのだろうか。

 11)脳死といっても、全脳死か、脳幹死か、大脳死か。

 12)脳死したあとの医療は止めるべきか。

 13)誰が同意すれば、臓器摘出が許されるのだろう。本人の生
前の同意だろうか。妻か、子供か、親戚一同か。

 14)脳死問題と移植は、分けて議論すべきなのだろうか。

 15)臓器を上げたい脳死患者がいて、手術をしたい医師がいて、
臓器を欲しい患者がいるなら、そこに第三者が是非の口を挟む権
利はないのだろうか。

 16)誰が、優先的に移植を受けるべきなのか。最も重い患者か、
それとも移植後一番長生きが期待される患者か。

  17)もともと、こんな医学的問題に素人が口を挟むべきなの
だろうか。

#0003 ultra7   8901281549

 ついでに、脳死・臓器移植推進派の皆様から、なぜ移植を進める
べきか、よく聞く論理を3つご紹介しましょう。この論理は、非常
にピュアで強力なものです。ボーっと聞くとつい、「確かに、その
通り」と思ってしまうのですが、ひとつ一つ検討すると、なんかお
かしいのですね、この論理。皆様は、どう思われるでしょうか。

 「移植しなければ、助からなく、是非移植をして欲しいという患
者がいます。そして脳死後には、自分の臓器をあげていいという、
善意の人がいます。また、移植をして、助けてあげたいという医者
がいます。この三者に、誰がなんの権利で移植をするなと、言える
のでしょうか。脳死論議も結構ですが、この三者の「権利」をじゃ
まする、ことは誰もすべきでないと思います。」

 「脳死した遺族に、臓器を提供して下さいと頼むと、これ以上、
この人に痛い思いをさせたくないって断られることがあります。本
人は、死んでるのだから、痛いもなにもないのですがね。それで、
もっとおかしいのが、痛い思いをさせたくないといった、その人を
翌日には釜の中に入れて焼いて、えらい熱い思いをさせるわけです
よ。人情とはいえ、矛盾してると、思いませんか。その臓器を人に
あげれば、一人の命が助かるのに、焼いてしまうのが人情でしょう
か。」

 「脳死の定義が、どうの、判定法がどうのという話がされている
けど、今日本で採用されている竹内基準は、世界でも最もきびしく、
慎重な脳死の判定基準です。もっと、基準が緩いアメリカでさえ、
今更脳死の問題なんて、誰も問題にしてません。脳が死ねば、あ
きらかにその人は死んでいるわけですから。それに、竹内基準を満
たして、生き返ったという人が、一人でもいますか。毎年、800
0人くらいの脳死者がでているのに一人もいないでしょう。この判
定法の正しさは、一人も生き返ってないという事実で立証されてい
るので、もっと、脳死判定を慎重にとかいっても、意味がないので
はないでしょうか」

#0004 sci2377  8901290420

部外者一名参加・・・。

脳死 が認められるということは、肉体がどんなに重傷でも
脳が生きているのだから死んだ事にはならないのかしらん?

SFの世界じゃないけど、偉い科学者の脳を人工的に保存したりしたら、
その人は、生きてると言うべきか、死んでいると言うべきか・・・。
私の祖母は癌で死にましたが、脳は健康でした。
心臓や肝臓、腸や胃には人格はないのでしょうか?
体の中で一番先に死んでしまう組織が脳だと聞きましたが・・・。
最後に、脳の移植はどう対処する方向にあるのでしょう?
                                                        kota.
Amarinimo bakuzentoshiteite muzukashiimondaidesu.

#0005 sci2537  8901292343

 はじめまして、ultra7さん。私は、某大学の電気工学科の4年生
です。4月から社会人になります。

 私は、ふだんは、「脳死」について、殆ど考えてみた事が無かっ
たのですが、先日、このサイエンス・ネットに入会して、ultra7さ
んの「脳死・移植」に関する基調発言を読んで、あらためて、自分
でも、今日本での臓器移植に大きな影響を与えている脳死の取扱い
かたについて考えてみることにしました。

 まずultra7さんが、提言された「脳死・移植」についての問題に
対しての、私なりの意見を述べさせて頂きます。

 私は、医師でもなければ、医学部の学生でもない、医学に関して
は全くの素人です。でも、素人なりの考えはもっています。

★★★ 「死」の定義 について ★★★

 私にとって「死」とは、”永遠に”自分の意志によって活動が出
来なくなった状態、ということが出来ます。これは、学問的な見地
からではなく、あくまでも、「意志をもった人間」としての存在価
値を考えてみると、自覚する「意志」を持たなければその「人」は
”精神的”ではなく”物理的”にしか存在し得ない、という、半ば
「哲学的(?)」な根拠によるものです。あまり、うまく表現でき
ませんが・・・・

 もう少し、現実的にいってみれば、自分のいっさいの「精神活動」
が停止したときが、まさに意志をもって行動する人間としての「死」
といって良いのではないでしょうか? つまり、どんなに心臓等の
臓器が活動していても、それは本人の「意志」とはまったく無関係
に、他人の意志によってさえ可能なことであり(人工心肺)、「精
神的」な活動を本人の意志のよって行なうことが出来なければ、医
学的には「生存」していても、本人の精神的存在価値(いわゆる、
生きがい)はもはや認められないのではないでしょうか?

 しかし、現在の社会ではそんなことで「死」の判定が下されてい
るわけがありません。あくまでも、「医学的」な診断よって最終的
に「死」が認められているのです。ですから、いわゆる「脳波停止」
が、私の言う「精神活動の停止」に当てはまるのかどうかは、一言
では言えないと思いますが・・・ultra7さんおよび皆さんのご意見
を聞きたいと思います。

 話が長くなりましたが、今回は、私の考えている「死」の定義に
ついて述べさせてもらいました。 その他の定義された問題につい
ては、また次回にでも述べようかと思っています。

                                sci2537

#0006 sci1598  8902022223

「死とは何か」が問われているのだとおもいます。
そこで少し古いのですが、「朝日ジャ−ナル」の
記事をアップしたいのですが、いかがでしょうか?
1975年11月28日号の、「死人に口なし」は本当か、
という長倉功記者の文章です。

ぜひ皆さんに読んでいただきたいのですが、著作権のことが
よく判らないので、全文丸うつしでも良いのか、か、
一部なら許されるのか、自分の言葉になおさなければ
いけないのか、を教えていただけませんか。

黙ってアップしてしまえば、よもや削除されることもないと
思うのですがそこは私の性分なもんでヘラヘラ

脳死をおおいに盛りあげたい<  猫  男  >

#0007 sci2658  8902041201

脳死、臓器移植について。

人間の死について、

 人間の死にたいして、以前にここに書き込まれた方が、人間の死は、その
人の意識と考えたり、生き返る生き返らないということを問題にしています
が、それには少し問題点があると思います。まず、人間の意識は、計れない
こと、脳波と意識は別物であることをわすれています。また、生き返るとい
うことは、死というものを定義しない限り、使えない言葉です。
 「もう見込みはありません、時間の問題です」といわれた危篤の患者さん
は死ではありません。

 私は、私個人の考え方ですが、人間は、精神的には死なないと思っていま
す。人間の魂の存在を信じているわけです。この科学の進んでいるときにな
に迷信めいたことをいっているのだと思われるかも知れません。しかしこの
魂といっているのは、幽霊やたたりとはべつのものです。これには少しわけ
があるのです。知人にこんなことをいった人がいたのからそう思うようにな
ったのです。
  人間肉体があるからできないことがたくさんある。ものを食べるには、
  生物を殺さなくてはいけない。家族を養うためには嘘もつかなくてはい
  けない。慈善事業ばかりしたいのだが、そうもいかない。でも死んだら
  別だ。肉体にじゃまされない。死んでからやりたいことがいっぱいある。

といったのです。なかなかおもしろいでしょう。それに私なりの解釈、

  死んで何もなければ、これほどむなしいことはない。
  死んでやることがあるのなら、すばらしい。
  それならばいっそう魂があると考えたほうがいい。

ということが、私の魂説を信じるようになった発端です。だれか、これにつ
いて「いいやちがう!」と力説できる人はいますか?たぶんいないでしょう。
そうなのです。これは極端な例かも知れないですが、人間は科学で、生につ
いて何も知っていないのと同様に、精神の死についても何も知らないのです。

これは、いま考えている脳死の死の問題からいささかずれています。
人間の死に対する考え方は、多種多様であるといいたかっただけです。

私は人間の死に関して、今思いついたのですが、次のような定義を考えています。

 火あぶりと火葬のさかいめ
 臓器移植と殺人のさかいめ

問題は、「人間いかに死すべきか。」ということを概念の問題だと思います。

 この人間いかに死すべきかという言葉は、昔あった本からとったのですが、
これは、人間いかに生きるべきかということと、同義で使っています。
 人間いかに死すべきなのでしょう。人間のうち半分の人は、自分だけのた
めに生きると答えるかも知れません。しかし、その人はその人でいいでしょ
う。私は、その人を対象にいま議論をしていませんから。そして、残りの半
分の人は、他人のために生きていきたいと願っています。できれば、人の命
を助けたいということは、その人の最大の願いではないでしょうか。少なく
ても私はそうです。しかしその人たちはそう生きているのでしょうか。多く
の場合、自分やそれをとりまく環境のためにそうできないでいるのではない
でしょうか。ましてや人の命を助けるなど、そんな機会さえもありません。
 脳死に直面した患者さんは、その機会を与えられているのです。患者さん
にとっては、自分の臓器によって、他人が健康になれることは、人生最高の
幸福な出来事ではないでしょうか。そして、今の制度は、この人間の幸福を
一つ奪い取っていることでもあるのです。こんな考えが浸透できれば、もっ
と臓器移植はスムーズに行なわれると思うのですが、これを読んだ方はどう
思われますか?、ぜひこれについて意見をお知らせください。

  以上のようなことから、私は脳死を死と考えてもよいと思います。もちろ
ん脳死は死ではないという方がおられるのなら、その人にはその意見を尊重
します。いろいろな考えがあってよいでしょう。いま学会のほうでも、個人
を尊重する方向にもっていっているみたいですからね。

 最後に、たぶん臓器を提供される患者さんの回りの方はさぞつらいでしょ
う。みずみずしい肌、動いてる心臓、生々しい臓器、そして皮膚から出る血。
でも私が私の臓器を移植するときなら回りの人にこううったえかけます。
 
 見てくださいこの私の幸せそうな顔を
 生きていたって構わないじゃないですか。
 これが私が生きているとき一番したかったことですよ
 私は、死ぬ直前にこんなすばらしいことができたんですよ。

てね
                            かずおうさん

#0008 sci1223  8902050131

 脳死について興味のあるみなさん、今晩は。 私も参加させてください。

 まず、昨年の暮れに義父をなくした経験からちょっと言わせてください。ごく親
しい人をなくした経験と言うのはショッキングなものです。5年ほど前から入退院
を繰り返しており、少し前には「回復するのは絶望的」と宣言されていました。ち
なみに、病名はガンでした。そういう状況でしたので、ある程度は覚悟していたつ
もりでしたが、いざとなると、理屈では割り切れない感情が起きてきます。
 関連発言#3で脳死・臓器移植推進派の論理として紹介されていることに関連し
てくると思いますが、いわゆる「日本人的なセンチメンタリズム」でしょうか。そ
の人は、医学的に完全に死んでいると聞かされてもまだ死んだとは思えないのです。
つまり、心の中ではまだ生きている・・・という不思議な状態がしばらく続きまし
た。その状態から抜け出したのは火葬がすんでお骨を拾うときでした。私自身、こ
ういう感情を持つとは思ってもいないことでした。つまり、肉親の死に直面したと
きには、その死にたいしてとても論理的には応対できなかったのです。

 私自身、臓器移植問題に対して以前は第三者的な無責任さで「どんどんやっても
良いんじゃないの」などと思っていました。というよりあまり深く考えたことがあ
りませんでした。しかし、「死」に対面した後考えが変わったのです。つまり、「
死んでいる」とか、「生きている」とかの判断を下すことが恐ろしいことに思われ
るようになりました。単純に医学的・物理的なものの他に、宗教・哲学的な判断が
重要だと言うことです。おそらく、アメリカと日本ではだいぶ違うだろうし、国が
違えば考え方も全然違うでしょう。
 例えば、先ほどの義父が「脳死」と判定されたとしますと、私はどの様な対応を
とったでしょうか。おそらく、肉体の一部が「生きている」としたら、絶対「死ん
だ」とは認めないと思います。従って、もし臓器移植の要請を受けてもそれを認め
るのはむずかしいでしょう。

 夕刊の科学欄にかかれていたアメリカの現状にはショックでした。(1.18の記事
です。ウォッチ#109の関連#2に全文がUPされています)
> <臓器不足> 米国も、慢性的な臓器不足に悩んでいる。臓器提供を増やす
>ため、脳死患者の家族に臓器提供の話をすることを病院に義務付ける法律が、
>約40州で施行されている。しかし、この法律の制定後、原因ははっきりしな
>いが、かえって臓器提供者は減ってしまった。スタンフォード大の移植コーデ
>ィネーターは「87年には全米で約9000個の腎臓(じんぞう)提供があっ
>たのに、88年は7000個ほどに減りそうだ」と打ち明けた。
>
> 脳死段階での自分の臓器の提供に同意するドナーカード制度も、うまくは働
>いていない。米国民の約2割がドナーカードを持っているといわれるが、臓器
>提供者で実際にドナーカードを持っていたのは2、3%に過ぎず、ドナーカー
>ドの普及が臓器提供に結びついていない。
>
> 浅香さんは「法律ができさえすれば、臓器の提供がかなり増えるに違いない
>という当初の見込みが甘かったことは確か」と見ている。
>
> <乱立> 全米の心臓移植施設はすでに130施設を超え、その過熱ぶりは
>「現代のゴールドラッシュ」と呼ばれている。浅香さんは「心臓移植をしない
>と、一流の病院に見られないという雰囲気が乱立を招いている」と指摘する。
>こう乱立すると、移植成績の良い施設で手術を受けたいと思うのは人情だが、
>全米の移植ネットワーク組織・UNOSは、各施設別の移植成績などを一般に
>公表するのを拒否している。

 「脳死患者の家族に」とか「脳死の段階で」とか言う表現がたくさんでて来ます
が、脳死の判定と言うのはよほど慎重にやらなければいけないものです。私の考え
では、能の機能がストップしてもまだ死んではいないと思います。竹内基準がきび
しいといっても、自分の肉親の場合はどうだか。

あまりまとまらないですみません。          ひらひら でした。

PS. 夕刊のサイエンスネットコラムにこのコーナーの紹介をULTRA7氏が掲載
  されましたが、いま一つ盛り上がりませんねぇ。
  確かに、いろいろとむずかしいですから・・・。

> サイエンスネット会員のドクター様方
 プロの意見、考えなどよろしければ発表を。

#0009 sci1598  8902060021

  脳死にしても植物状態にしてもそうなった場合、以降の治療をどうするか、
臓器摘出を要請されたらどう答えるか、は一般論として発言する場合と、肉親
など身近な人のこととして考える場合とでは違ってくるのが人情ではないでし
ょうか。親しい人の死を実際に体験したかたの場合はなおさらでしょう。

  私の場合、5年ほどの間に姉と義父母など4人の親しかった人たちとの別れ
を経験しました。一人は交通事故もう一人は脳卒中で、どちらも数時間のうち
に他界したのですが、姉は1年間、義父も9カ月間の闘病生活を送ったのちこ
の世を去りました。二人とも素人の目から見ても回復の見込みのないのはあき
らかでしたが、妻に先立たれていた義父はともかくまだ若かった姉の、生きよ
うとする努力には頭の下がる思いをしました(彼女には夫がガンの告知をしま
した)。

  一般論として言えば、たしかに助かる見込みのない患者に治療を続けるのは
無駄なことであり、その人の臓器を移植することによって誰かの生命が救われ
るのなら、そうしたほうが良いようにも考えられます。しかし、今の医学では
回復の見込みがなくても何年か、いや何カ月か後に劇的な治療法がみつかる可
能性もあるはずです。(臓器移植手術がそうであるように)

  だからといって臓器移植を否定するつもりはありませんが、この問題が臓器
を提供する患者とそれを受ける患者およびその家族たちの気持ちより、脳死患
者をいつまでも入院させておくことによる施設の不足や医療費のことがまずあ
って、それを解消するために持ち出されたと考えるのはヘソ曲がりの私だけで
しょうか。厚生省や医師会が判定基準を決めるのは構わない(といっても、あ
んまりいいかげんなものでは困る)のですが、摘出の最終的な決定権を持つの
は患者自身(意識があろうがなかろうが)であることを忘れてもらっては困る
のです。

  関連発言2番の3),4),5),6)の疑問に対する一つの答えが長倉記
者の記事に載っています。著作権のこと、どうなんでしょうか?  原発ボ−ド
で団藤さんが書いていらしたと思うのですが、探すのが大変なものだからどな
たか教えてください。
                                     う〜ん、むずかしい <  猫  男  >

#0010 magam    8902062135

長倉記者が出張中でまだ連絡がとれません。
悪くすると、連絡がとれるまであと一両日かかるかもしれません。

要約でしたら構いませんが・・・・・・・

<猫 男>さんへ        管理人  馬上

#0011 ultra7   8902071119

しかし、よくこんな昔のジャーナルの記事を取ってられましたね。
私、こんな記事のあること自体知りませんでした。おみそれ致しました。

 科学面のネットコラムで、この脳死コーナー開設を宣伝して始めておき
ながら、最初に話を振ったまま、手を抜いててすみませんでした。

 コーナーが盛り上がらない、とか、最近ultra7を見ないとか、色々
書かれてしまいましたが、正直本業が忙しかったのです。

 (アイツは、暇だからネットなどやっているとう、後ろ指を刺されつつ
当たってるだけに反論の余地のない日々であったが、今回は本当に忙しかった
のだ。私だって仕事で忙しいことくらいあるのだ。では、なんの仕事で
忙しかったか、とういうとそれは、まだ、秘密なのだ。8日の夕刊科学面を
見ていただけば、わかるのだーーーーーーーーーーーーーーーーー)

 と、自分の記事の宣伝をしつつ、将来のこのコーナーのフォローを
約束して消えるのであった。
                         ultra7久保田

#0012 sci1598  8902090019

フフフ...もっと古いジャ−ナルもありますよ。
捨てられなくて困っているんです。
(どうせ、あたしゃ古い人間です)

要約すると朝日ジャ−ナルの記事じゃなくなって、
「ム−」の「死後の世界」の特集のようになって
しまいそうな気がしてこわいのです。(これは、
長倉記者の責任ではなくて、私の国語力のなさに
あるのですが)

まだ連絡つきませんか?

今回は真面目に参加したい<  猫  男  >

#0013 magam    8902090102

明日出張から帰ってくるそうですので、少々お待ちを

                      管理人

#0014 magam    8902091900

< 猫男 >さ〜〜ん

長倉記者と連絡が取れましたよ〜〜

全文引用しても結構ですってぇ〜

             よかった、よかった  管理人

#0015 sci1902  8902100533

さて、一応医学関係者であるMNEMOかかわらず、沈黙していたつちねこです。
沈黙の理由はありません。「脳死」について思い出したり調べたりするのがメンド
−だっただけです。医師免許を持っているとはいっても、こと脳死にかんしては一
般の人と知識レベルは変りません。事実、神経内科で研修をしたにもかかわらず、
学生時代の臨床実習から通算しても3年間で脳死は、一例もみていません。

ただ、脳死を論じる上で必要とされる若干の医学的知識は持っています。
久保田さんの#1発言をみますと、これはどうも立花隆氏(人によっては、「あの」
なんてつけたく思うかも)の「脳死」をベ−スにしていらっしゃるようですが、こ
こで言われている程度の知識は「背景として」持っています。久保田さんも言われ
ておりますが、脳死はそれほど多くの知識がなくても「常識」で語れる部分があり
ます。ですが、この本に出てくる程度の知識を身につけるともっと本質がみえてく
るのでは、と思います。

以下、脳死についての私見(?)を述べます。が、私のレベルでは、医学的には、
あんまり大したことは言えません。
                    つちねこ
あ、これ皆さんんの発言を十分にまだ読んでいない段階でのものです。
読ませて頂いたのち、またアップします。

#0016 sci1902  8902100534

その前に、久保田さんから出されていた17の事項のうち、答えうる物には、意見
を述べたいと思います。
1.死の定義とは何か。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−後述。
2.人の死には種類があるのか。−−−う−ん。根拠は明らかにできませんが、あ 
                  るのではないかなあ。
3.脳死は人の死か?大体死んでいるのか?−−これは、私がもっとも問題にした 
                      いところですので、後述。
4.脳死すると本当に生き返らないのか。−−−3.との関連で後述。
5.どうすれば、脳死って分かるのか。−−−−3.との関連で後述。
6.生き返らないと死んでいるは、同じか。−−いやあ、難しいですねえ。
7.もし、臓器摘出が許されるなら、それは死んでいるからか。−−そうだと思い 
                               ます。
11.脳死といっても全脳死か、脳幹死か、大脳死か。−−個人的には、全脳死と 
                           思っています。
14.脳死と、臓器移植は −−−−−−−「脳死」その物については分けて論ず 
   分けて論ずるべきか。        るべきと思います。しかし、論ずる 
                    前提には、臓器移植があるのは事実で
                    す。
17.もともと、こんな医学 −−−−−−挟むべきです。
   的問題に素人が口を挟むべきか。

            読み返すと良い加減だなあ  つちねこ

#0017 sci1902  8902100536

そもそも脳死とはなんぞや。
世間の人は、「脳死」って何となくイメ−ジできるけれども、実際の意味は知らな
い人がほとんどと思います。患者さんの家族でも、「昏睡状態ですね」と説明する
と、もう脳死していると勘違いしてしまう方もいらっしゃるくらいです。
ここで、復習の意味を兼ねて簡単に人の死に方をおさらいしてみましょう。
死ぬのは、「人」全体が、パッと一時に死ぬのではありません。そこで、脳死だの
何だのと問題が起こってくる訳です。

<普通の死に方>
 心停止→様々な臓器の死(脳死を含む)→もっと小さいレベルでの様々な臓器器
 官の死→細胞レベルでの死
こんな風になる訳です。(細かいところははしょってありますけど)
(例)心筋梗塞→心停止→脳死、腎臓の死→皮膚の死、造血細胞の死

で、今までは大概の人100%の人がこの死に方をしていたので、「死亡」とされ
ていた「心停止」の時点から後は、臓器を取り出しても良かったのですね。「死体
腎移植」は、この「心停止で、個体は死んでいるが、臓器としての腎臓は生きてい
る」というタイムラグを利用して行なわれています。
ここでは、「心停止」は、死への進行のうちの「ポイント・オブ・ノ−リタ−ン」
である、という考え方をすることもできるでしょう。(PERSON OF NO
−TARINはわたしです。)
最近になって、人工呼吸器(レスピレ−タと言ってます。)が、進歩しまして、あ
る一定の条件さえ整えば、この死への進行の順番を人為的に変えることができるよ
うになりました。細かい説明を省きますが、脳に大打撃を受けて不可逆な変化をき
たしたにもかかわらず呼吸器で、心臓・肺は生かされている状態、というのが可能
になったのです。

<普通でない死に方>
 脳死→呼吸器装着(あるいは、呼吸器装着→脳死)→心停止→各種臓器の死

で、ですね。「心停止→各種臓器の死」というところは、非常に速やかに進みます
ので(ま、腎臓など、臓器によっても違いますが、例えば話題の心臓なんかはほぼ
同時でしょう。)心臓移植をやりたい人たちにとっては、「心停止が個体の死」と
いう今までの死亡の判断方法では永遠に心臓移植はできません。それで、脳死を個
体の死と認めてはどうじゃね、てな方向にギロンが進んだのです。「ポイント・オ
ブ・ノ−リタ−ン」を、脳死にしよう、と言う訳です。

この点で、脳死論争は臓器移植ときりはなして考えることはできません。始まりが、
臓器移植だからです。しかし、「脳死は死か?」「脳死の判定は?」こういったこ
とを考える時には、臓器移植は切りはなして考えるべきと思います。(臓器移植し
たいから、あいまいでも認めましょうや、何てなったらタマりませんからね。)
                   つづく   つちねこ

#0018 sci1902  8902100536

脳死は人の死か。
ここから述べることは、全くの個人的な意見です。医学界がど−のこ−の、てなこ
とは全く関係ありません。ついでにもう一つ、これは、全くの純然たる科学の問題
として述べてます。宗教・倫理、そういったことは考慮していません。
その理由は。医学的に脳死が、本当に死としてもいいんだよ、って分かってから次
ぎに宗教・法律・倫理のことを考えても遅くないから、と思っているからです。
本当に死んだかどうだかもはっきりしないで、そういうことを考えるには私の頭は
向いていません。(これ、そういうことを考えるべきではないと言っているのでは
ありません。むしろ、考えるべき、と思います。が、私個人の中では、どうも問題
がゴッチャになってしまいますので、敢て、考えずにいるのです。)ですから、実
際私の肉親が「脳死」と判定されたとき、それを受けいれられるかどうか自信なん
ぞありません。

脳死は、人の死と考えます。
がっこで、今まで習ってきた知識、脳の働きにかんする報告、脳死とみられる症例
の報告(結構ズサンなものみたいですけどね。)そういったことをかんがみまして、
「死」の定義を、「ポイント・オブ・ノ−リタ−ン」とすれば、脳死は立派にその
ポイントになりうる、と思います。ただし、2、3条件はつきますが。

条件その1 脳死の判定が確固たる物であること(後述)。
条件その2 ポイント・オブ・ノ−リタ−ンの拡大解釈はしないこと。
条件その3 症例をもっと集めること。数年ごとに見直すこと。


その1については、別に述べますので、その2、3についてここでは述べます。
ポイント・オブ・ノ−リタ−ンというのは、「死に向かっていく上で、不可逆な点
になる所」です。これ、そのまま解釈しますと、末期ガンの人なんか、もうポイン
トを越えているみたいです。おなかパンパンにして、まっ黄色で、下血、吐血、感
染症を繰り返し、最大血圧が40、薬剤に反応せず、もうこりゃ明日逝っても不思
議じゃないや、という患者さんは、今、この時点で全国にうじゃうじゃいると思い
ます。でも彼らは生きています。
ま、当り前のことですけど、前項に述べた「死に方」の一連の進行のうえでの脳が
死んだ状態での、個体に対するノ−リタ−ンの意味です。(移植医を信用しない訳
じゃないですけど、ど−もね。)
その3についてです。理論的には、脳が死んだら不可逆で、その人も生き返ること
はない、というのはわかります。しかし、理論が通じないのが医学の特徴で、今ま
でに色んな病気で例外のない病気はないぐらいなもんです。もしかしたら、今の科
学では分からない機序で生き返るかも知れない?1万例症例を集めて大丈夫でも、
10001例目はどうか分からない。そういうおそれはあると思います。
                 つづく   つちねこ

#0019 sci1902  8902100537

脳死の判定はどうでしょう。
今、厚生省から出されている脳死判定基準があります。立花隆氏の本を読むと分か
りますが、結構甘い物です。前項に述べた、条件その1はまさにここにあります。
つまり、「今の判定基準じゃ、どうもねぇ・・・」と、思わざるを得ない所が結構
あったりします。
その判定基準すらあんまり守られていないのも事実です。
<脳死裏話> 私の行ってた大学の、神経内科の先生(ま、明らかには言いません
が、教授クラスのえらあい人。世界的に有名です。)の授業で、脳死の所がありま
した。そして、判定基準の所では、「自発呼吸の停止」と言うのがありまして、呼
吸器を外して何分間か(10分だったかなあ)放置しておき、呼吸が起きるかどう
かみるのですが、その先生いわく
「やっぱり家族の方がいらっしゃるとねえ。呼吸していないのに、そう何分も放置
しにくいですねえ。わざと殺しているみたいで。ですから、3分くらいで、また呼
吸器を付けてしまうことがおおいですね。」
とのことでした。幸い、うちの大学は移植にかんしては後発の大学で、脳死判定が
すぐにどうこうという所ではありませんでしたから。こういうのも、きっと厚生省
の症例デ−タになってるんでしょうねえ。

ではどうしたらいいのでしょうか。こりゃ、もうあらん限りの手立てを絞って探索
し、「疑わしきは生きている」の方針でやるよりしょうがないのでしょう。脳血管
造影(4−6VESSEL STUDY)や、CT(contrast enha
nced)、ABR、BSR、EMG、EEGなどなど、やるべきことはたくさん
あると思います。立花氏の本にも、SPECTだのPETだのといった良く知らな
い方法も紹介されてます(結構有用みたいですねえ)。

感覚的には、今の判定方法は、余りにもBED SIDEでの判定に便宜を計った
ように思えます。実際問題として、瀕死の患者さんをX線だあ、生理学的検査だあ、
と病院内あちこちを呼吸器付けて引っ張り回せるか、てなネックがあるのですが、
人の死を余りにも簡単に判定しているような感じです。(ここのくだり、学問的根
拠あんまりありません。感覚的なもんです。)
                         つちねこ

#0020 sci1902  8902100539

脳死をすると、生き返れないのか、本当に生き返らないのか、
脳死は死なのか、
これらについては、所々書きましたが、
日を改めて、またアップします。
                つちねこ

#0021 sci1902  8902100540

さて、脳死について述べてきましたが、自分の意見を言うというよりは今の脳死の
状況をおさらいした、にとどまってしまったようです。
これから他の方が、脳死を考え、このコ−ナ−にアップする際の一つの参考になれ
ばいいですね。
脳死は、常識で語れる所も結構あります。でも、医学的知識を持っていたらもっと
良く分かる所もまたあります。立花氏の本は、ちょっと見方・話しの進め方につい
て行けないところもかなりありますが、参考書としては非常に優れていると思いま
す。医学部で教えて貰うのと同じ位のレベルのことを、(だいぶはしょりながらで
すが)分かりやすく書いてあります。はっきり言って、医師免許持っていてもあれ
だけのことは知らない人もいるでしょう。非常に参考になります。一読をおすすめ
します。
                           つちねこ

#0022 sci1902  8902100659

皆さんの発言読ませて頂きました。(ここで「面白く・・・」って、付けないとこ
ろがミソでしょ?)
ふんふんとうなづき、ううむと思い、考えました。

で、あんまり医学的なことには触れていないんですね。みなさん。
倫理的なこと、感覚的なこと、もちろん重要ですが、医学的なことにも「素人」の
意見は重要だと思いますよ。
実際、脳死の判定基準に沿って判定するのは医者です。ですが、今のところ基準そ
のものが世論を納得させるだけの物を持っていないのだと思います。変えるなら今
です(なあんていっていいのかな)。
実際に判定基準ができて、判定されるのは大多数が「素人」の人たちです。(脳死
者7000−8000人/年のうち医者は10−12人でしょ?残りの大多数は医
者じゃない人なんですよ。)ですから、口を挟める内は挟みましょう。誤診されて、
生きているのに脳死だ、なんて言われて心臓取り出されるのは嫌ですからね。

さてと。
脳死は死か。絶対に生き返らないのだろうか。
これにかんして私見を少々。
前のアップで、あんまり根拠も言わんと、「脳死は個体の死と考えます。」なんて
言いましたが、ここではその根拠を少し述べたいと思います。とは、いっても、世
間で言い古されていることの焼き直しにしかなりませんが。

とりあえず、死とはなんぞや。
これは難しい問題でして、体のすべての細胞に到るまで死につくした時を死とする
ならば、現在大多数の人(死者)は、生きたまま火葬されていることになります。
個々の細胞レベルでは、結構長生きする細胞もあるようです。(具体的には良く分
かりませんが、「いわゆる」死後、数日間は生きている細胞があるようです。)
では、細胞じゃなくて器官・臓器がすべて死に尽くした時を死とするならどうでしょ、
となりますと、これもまた「いわゆる」死後、数時間から数日間生きているらし
いのです。
こんな風に、「死」という物の定義ははっきりしないのですね。そこで、心停止、
が登場する訳です。心停止が起こった時点で、ある臓器や細胞は生きているかも知
れない。けれども、心停止というのは、死への進行のうちのPOINT OF N
O RETURNなのです。そういう意味で、世間では、心臓死というのを納得し
て貰っているようですし、実際「心臓死を個体死とする」という考えは支持されて
います。死というのは、POINT OF NO RETURNで定義されうる物
と言えましょう(他の定義もあると思いますけど。話しを分かりやすくするために)

さて、脳とは、極めて「死」に弱い器官であります。その、酸素や糖分の消費、再
生能、そういったことを考えますと、5分血流が途絶えただけでもう再起不能になっ
ちゃうのですね。IRREVERSIBLEなのです。ここから、脳死は非可逆で
ある、つまりPOINT OF NO RETURNなわけです。
他の臓器でも、非可逆な変化というのは起こりえます。「壊死」というのがそうで
すね。例えば、凍傷で指が壊死して死んでしまう。これだって考えようによっては、
指にとってPOINT OF NO RETURNを越えてしまっているといえる
でしょう。
じゃなんで、「指死」が個体死にならなくて「脳死」が個体死になるかと言います
と、脳が、個体にとって、個体を維持するにおいて必要不可欠の物であるからです。

心臓死が個体にとってPOINT OF NO RETURNであるのと同様に、
脳死も個体にとってPOINT OF NO RETURNなわけです。
この観点から、私は脳死を個体の死と取って良いと思います。

では、絶対生き返らないか。
さあ。今のところ知られている科学では、生き返らないと言えるでしょう。脳細胞
は、一度死んだら再生しませんし。全部の脳細胞が死んだら、全部の脳細胞は死ん
だままでしょう。すなわち、個体も確実に死に到るでしょう。
でも。絶対か!と言われるとどうでしょうねえ。将来科学が進歩して、脳細胞を生
き返らせることができるようになるかも知れない。それは分かりません。と極めて
い−かげんな答えをしてしまおう。心臓だって、昔は止まったら駄目だったけど、
今は動かしうるケ−スもあるし、ましてや人工心臓の時代ですからねえ。脳だって
もしかしたら・・・。

ご質問・ご意見・などなどお待ちしています。
ここへのアップ又は、銀★通☆2182へメ−ル下さい。
          ↑銀座通りにあらず。
                          つちねこ

#0023 ultra7   8902101258

いやいや、おろろいた。
ホスト役の怠慢で、「脳死」コーナーと化していたのに
急に生き返ってしまった。どうも、命をありがたう!

 とりあえず、膨大なあーちくるを読ませていただきます。

 それから、皆様、これは、医学だけの問題ではないので
(もちろん、医学の問題でもおおありですが)感想程度の意見でも
どんどん、書いてください。しばらくは、医学あり、倫理あり、
宗教あり、オカルトありの玉石混合コーナーで行きたいと思います。

 だって、分野別に分けるほどまだ、参加者がいないんだもん。

#0024 ultra7   8902101300

それに真の意味での脳死のエキスパートなんて、世界に
一人もいないのだから・・・。

 今なら、何をいっても大丈夫!!!

#0025 sci1902  8902101923


脳死クイズ・医師数人に聞きました。

医師A 脳死?みたことないけど。あんなのって、結構つくれるんじゃないの?レ
    スピレ−タにつないでさ。
医師B 脳死なら何例も見たことあるよ。脳死って要はベジちゃんのことでしょ?
医師C 天皇陛下だって、脳死にしようと思えばできたんじゃないの?しなかった
    だけで。
医師D 全脳死と、ベジ・失外套・除脳のちがい?どれが脳死か?さあ。全脳死が
    脳死なんじゃないの?他のがどうかって言われてもねえ。
医師E レスピレ−タつけてれば、脳死になるんじゃないの?

*ベジちゃん=ベジタブル、つまり、植物状態のこと。脳幹は生きている。生体と
       しての反応もある。が、高次の人間的な機能は失われている状態。

いずれも、神経内科医(とは言っても、所属がそうだ、というだけで、専門医や認
定医ではさらさらない。単なる、研修一年目の、医師としては限りなく一般人に近
い人たち)の解答です。私の解答も実はこの中に含まれていたりして、結構お寒い
状態だったりするのです。

以前、別のコ−ナ−で、天皇は脳死になっているとしか考えられない、と言ってた
方がおりましたが、脳死について調べていくとどうもそういいきるのは難しいよう
な気がします。正直言って、天皇陛下のベッドサイドに呼ばれて、「さ、判定して
ちょ」と言われても、「そうでない」と言い切るのはあるていど簡単にできそうで
すが、「そうである」と言うのは困難なように思います。
脳死って、のうしてこんなに難しいの?
                            つちねこ

#0026 sci1598  8902111008

  どうもお手数かけました。練習コ−ナ−の499番に
“資料  「死人に口なし」は本当か”をアップしておき
ました。ぜひご一読ください。
                                      <  猫  男  >

#0027 sci1902  8902112227

長倉記者の記事を読みました。

<その1 記事の内容について。>
時代が古く、今の医療事情とはだいぶ、かけはなれていること、記者の「〜であろ
う」という予断のもとに記事が構成されていること、など、納得できないところが
多くありました。
あい反する二つの考えがある時に(かりにAとBとにしましょうか)、Aだけから
の物の見方しかしないのは危険です。また同様Bだけというのもまた危険です。そ
して、長倉記者のこの記事は、その危険を犯しているように思いました。

私は、安楽死問題に着いては今だ態度をはっきりとさせて射ませんが(むしろ、安
楽死は現在のところ反対・または、将来にわたっても条件付賛成、のタマ虫色の立
場にいますが)、ここで述べられていることはその一方からの観点が強いようです。
そしてそれを拡大解釈し「こんなことが許されるなら、将来こんなことが起こるか
も知れない、いや、起こるに違いない。その時、安楽死させられるのは私達だ。」
と、あたかも警察の誘導尋問の如き(?!)書き方をしていますね。

朝日ジャ−ナルの、署名記事と言うことですから、記者さんの個人的な考えを表明
されるのは別段悪いことでもないし、こういうヘンな考え方をする人もいるのだな、
と思えば良いことですから、こういうことどうこう言うことがおかしいのかもしれ
ませんけど。

誤解されると困っちゃうので、繰り返し言います。私は、安楽死を容認するのでも
なければ、推し進めようとしている人間でもありません。ですが。それでもなおか
つ、この記事には危険なところがあると思います。記事の内容には、あるていど賛
成・納得できるところはありますが、その危険性には注意しなければ行けないかな
あ、と言ったところでしょうか。

<その2 脳死問題との関係について>
植物状態の人は、まだ生きています。植物状態の人は、死人ではありません。まし
てや脳死(いわゆる)でもありません。
この記事は、人の「死」についてを考える時の材料を提供しますが、それは「脳死」
といった限られた問題についてだけだはなく、心臓死も含めた「死」一般について
ではないでしょうか。
私が言いたいのは、この記事は脳死問題には「死」という共通項を通して間接的に
は関係はあるけれども、直接的には関係は薄いということです。
脳死問題のコ−ナ−に、この記事を参考資料としてアップされた気持ち努力は分か
りますが、かえって問題を複雑にしないでしょうか。これからこのコ−ナ−を読む
方、この記事を読む方に一つ覚えておいてほしいと思うのは、「植物状態は、生き
ています。脳死ではありません。」ということです。ましてや、脳死は安楽死では
ありませんから。ご注意下さい。

ではまた。
                        つちねこ
変な、くどい文になっちゃったなあ。

#0028 sci1260  8902120220

 おお、一天にわかにカキフライ、おもわぬ猫猫対決に発展するのでしょうか。
 こりは楽しみだ..ととと、いや不穏当なことを申しまして....

 確かに、長倉氏のこの記事のベースラインというか底音部には、あきらかに医
者への不信がうかがえ(恐い医者に泣く子供の例の取り上げ方とか、あるいは死
にいく人々に対して医者は不勉強に違いないと決めつけているように読める所と
か)、現場で頑張っているドクターのみなさんには「なんだこのやろう」と反発
を買いそうな部分が多いなあ、と思いました。ホント、つちねこさまはどんなセ
クションか存じませんが、ハチに刺されて半日たってから不安になりタクシー代
金がもったいないからとわざわざ救急車を呼びつけて深夜外来に繰り込む大学生、
といったような、輸液の中に「一般常識」をもまぜてやらんと社会的生命維持に
困難をきたしそうな植物並み人間までメンドーみてやんなきゃなんない御医者さ
またちをみると、おもわず手をあわせて報恩念仏をとなえたくなります。

 でも、その前に私は、つちねこさまが、この記事に納得いかなかった部分を、
より具体的に伺えたらと思います。
 >時代が古く、今の医療事情とはだいぶ、かけはなれていること
というのは、具体的に記事のどの部分なのでしょうか。
 >この記事には危険なところがあると思います
というのは、どんな危険なのでしょうか。単に、ワンサイドだけからものを言わ
んといてちょんまげ、というご不満なのか、それとももっと基本的な部分で、た
とえば患者が信じたら医療行為に支障がでるような記述がある、とかいった問題
点があるのでしょうか。

 つまり、つちねこ猊下はこの記事のどんなトコにお腹を起立(いい表現だなあ、
気に入ってしまいました)されたのでしょうか。というか、「ヘンな考え方」と
思われたのでしょうか。ぜひぜひ教えて下さいまし。

 ちなみに、この記事は医学的見地からする脳死論議には直接的関係は確かに薄
いと思います。しかし、いわゆるバイオエシックス的な見地、あるいは少々発展
して医療経済の見地からする脳死論議にはたいへん関係があると感じます。
 かなり脳死からはズレますが、一般の末期ガン患者へのケア内容に対して、吹
上御所のあのじいさんへのケアが桁違いの物量で行われたことは否めません。医
療行為の内容が、患者への医学的見地からする判断とは別に、その患者・医療チ
ーム複合体を取り巻く環境でかなり異なることは多分現実問題としては仕方のな
いことですが、国民皆保険制度の理念の基底にあるはずの医療サービスの平等が
きわめて達成困難なものであることを改めて確認した3カ月ではありました。も
しも私が末期も末期、大末期で、モルヒネでぽおっとなったアタマで、「故陛下
みてえにバンバン満タンに入れてくれえ」などと騒いだら、病院側はどーすんの
かなー。
 医師およびコ・メディカルスタッフが医療行為を行う際(死亡診断とか)、そ
こに関与するパラメーターは、医学上・社会環境上とりまぜ大変多いはずです。
 議論を脳死に戻して言いますと、問題はつちねこさまが前の書き込みでベジタ
リアン、じゃなくてそのよーな人たちのネタで語られていた内容をわはははとか
思いながらの思案なのですが、論文の中のコーマスケールの蓋然性や、移植プロ
トコルの完成度の高さとともに、それを実際に運用する医療チームの運用形態で
はないのでしょおか。結論としてこの記事は、医療従事者への期待と要望だと、
私は感じました。そのどこがヘンにみえるのか、興味を持った次第でありんす。

                         ムカシトカゲ

#0029 sci1902  8902120734

わはは。ご心配かけてます。
私、別に「猫猫対決」する気もなく、お腹を起立させているわけでもありません。
前のアップで私が言わんとしたこと、大きく分けると二つあります。
1.記事に対する感想・不満。
2.脳死を話す時の、あの記事の位置付け。

簡単な方から行きましょう。
2.の、記事の位置付けであります。ムカシトカゲ大人も言われておりますように、
あの記事は脳死とは直接関係がないのではないか、というのが私の考えです。もち
ろん、「死」とは、「死にゆく人とは」ということは、脳死に関しても同様ですか
ら、間接的には関係があります。そういった意味から、あの記事は読むべき資料に
は違いありません。が、何の先入観(と言っていいのか。背景になる知識と言うべ
きか)も持たない人が、脳死コ−ナ−であの記事を読んだ時どう思うでしょうか。
私が臆病過ぎるのかも知れないですが、「あ、植物人間て脳死の一種なんだ。」「
脳死者にも感情があって、それを死んだって言っているんだ。」と考える人がいる
やも知れません。実際、概念としての脳死と植物状態の区別のつかない医者もいる
くらいなもんで、そういった誤解はできることなら避けたい、そう思った訳です。
で、前のアップでは、「この記事は脳死問題を話す時、かえって複雑になるのでは
ないか。」「脳死と植物状態とは違います。」てなことをいったのです。
宜しいでしょうか。

1.の、記事の内容についてですね。
ムカシトカゲ大人のアップで、私の詳しい説明(回答?)が求められているところ
が二点あります。
その一 昔と今の医療状況が違うと言うのは、具体的にどこか。
その二 記事の危険なところはどこか。
そして、全般的に、記事の中で納得がいかなかったのはどこか、ということも求め
られているようです。

お答えしますが、前提を幾つか言わせて下さい。
本当は、あんまり「ここがねっ」と言いたくないのです。何か揚足取ってるみたい
で。(いや、実際揚足取りは得意なもんで。)
それから、この記事ですが、75年当時の医療状況を75年の長倉記者が取材して、
75年当時に発表されている物です。ですから、当時としては、これは医療の最先
端をいっている物で、14年たってから時代おくれだから(当り前のことですが)
といって、記事の存在その物、記事の内容その物が否定される訳ではありません。
あくまでもレトロスペクティブに「当時はこんなこといってたのだなあ」、という
物です。(ただし、昔の記事が、今の医療状況の中で、議論の参考にされるべきか
どうかは別ですが。)←あ、分かりづらいなあ。いってること分かります?

てな前提で。あ、長くなりましたねえ。項を変えるといたしましょうか。
            下腹部を起立させるのは得意な(おいおい)つちねこ

#0030 sci1902  8902120735

さてと。そういった訳で、私としては当時の長倉記者を非難する気はありません。

で、先ずこの記事の危険性はどこか、です。
具体的な、医療行為がど−のこ−のではありません。AとBとの二つの考え方があ
るときの、一方だけの物の見方を紹介するのは、一般論として怖いのですよん、程
度の物です。この記事を読んで、安楽死推進者の意見も聞きたいと思ったのは私だ
けかしら。できれば、同じ症例(綿棒さん、医者嫌い坊や)についての意見とか解
釈の違いを聞きたかったですね。そして、両者を比較して、「お、こっちの方が説
得力ある。」とか、「両者のこことここを合わせたら一番良い。」とか、判断して
みたかったです。(何か、小学生の作文みたいな文になってきたぞ)
この記事では、植物状態の人にも意識があるという前提での解釈しか載せてません
(長倉記者の解釈のようですね)。トンチンカンかもしれませんが、と断わってあ
りましたが。ここに不満の一点がある訳です。ですが、前にもいった通り、これは、
朝日ジャ−ナルの署名記事です。ですから、記者さんの意見を表明するのに何ら悪
いことはなく、こういった不満を持つほうがどうかしているのかもしれません。
(ま、これは、この記事にたいする不満のどれにも言えることですが。)
かててくわえて、長倉記者さんの「推測」にも不満があります。今の医療水準や医
学知識から考えますと、どうもやっぱり「トンチンカン」のようですね。(当時の
医療水準から考えるとどうなのかは、良く分かりませんが。)
こういったことをワンサイドからの見方でだけ紹介(発表?)することへの危険性
を感じています。

その二。医療水準が違っているのは、具体的に文中のどこか。
申し訳ないのですが、「ここっ」とは言えません。実は、わたくし、ここで紹介さ
れている「植物人間」が本当に今の医療水準で診察された時に「植物状態」なのか
すら疑っているからです。
はっきり言いまして、この記事は幾つか症例を挙げて「植物人間」の話として書い
てありますが、その前提すら怪しいと思っているのです。当時と今とでは、比べ物
にならないほど検査の方法が進歩しました。また、植物状態にかんする認識もそれ
にともないよりはっきりしてきているのです。
植物状態については話すと長くなりますので、次項にまとめましょう。読みたくな
い方は次項をスキップスキップランランランして下さい。次次項に、怪しみの根拠!
を述べましょう。
           ドラクエIIIをようようといた つちねこ

#0031 sci1902  8902120736

さて、そりでは植物状態について簡単におさらいしましょう。
ここで言っているのは、私の知識による物です。間違っている可能性もあります。
(もし間違ってたら、良い笑い者だなあ。←それが心配なら調べろっての!)

1.人間のノオミソ
 人間の脳は、大雑把に分けると外側ほど知識、記憶、感情、思考、判断、などな
どの高次の機能を持ってます。言い換えれば人間の人間らしさを司っている部分と
言えましょう。んじゃ、内側(下の方とも言えます)は何やってんの、と言います
と、そこは、呼吸、反射、内臓の動き、心拍数の調整、そういったより生命の維持
に近い機能を持ってます。ですから、ここは人間らしさと言うよりも、生物らしさ、
を司ってます。
具体的に、外側の代表は何かと申しますれば、それは大脳皮質であります。内側の
代表は、脳幹であります。脳幹脳幹と言っても些かひろうございますが、中脳、橋、
延髄、脊髄、が含まれます。
 んで、と。大脳皮質から起こる錐体路は随意運動を統率する神経路ですが、言わ
ば「動物神経」と言った性格です。
一方、交感神経。副交感神経を代表とする、生命の維持を司る神経群は「植物神経」
といった性格です。
もうお分りでしょう。植物状態とは、脳幹を中心とする植物神経は生きているが、
大脳皮質を中心とする動物神経(本当は余り「動物神経」って言わないみたいです
ね。)は、死んでいる状態を言います。
植物状態では、生命の維持装置(心臓など)を司る部分は生きていますから、個体
としても生きています。最早人間とは言えなくとも、生命としては生きています。

2.植物状態の判定は?
判定基準てあるのかしら。長倉記者の記事には一部紹介されていますのであるんで
しょうね。寡聞にして知りませんでした。ベッドサイドでするものなのかしら。
さてと。最近医療現場では、70年代当時では考えられなかったような検査方法が
出て参りました。そういった物をひっくるめて、植物状態を判定するに有用と思わ
れる方法を私の思い付くままに幾つか挙げてみましょう。
CT(C.E,Dynamic),ABR,BSR,DSA,EEG。
この例の中では、EEGを除くすべてが70年代には臨床医療の現場ではありえな
かった物です。そして、非常に有用です。

と、極々簡単におさらいしたところで次項へ行きましょう。
                        つちねこ

#0032 sci1902  8902120737

怪しみの根拠。
前項で述べました通り植物状態は、「生命は生きているが、人間としての高次の機
能(思考、感情、記憶など)は失われている状態」と言えます。
そのような、植物状態の人が、長倉記者の推測のような「考え」を持ちうるでしょ
うか。(いいや、持たない。と、反語的表現)
何時ぞやも言いましたが、例外のない病気はないくらいなもんで、可能性としては
長倉記者の推測は否定しません。ですが、植物状態とすれば長倉記者の推測は「ト
ンチンカン」な可能性の方が高いでしょう。(んでもって、可能性の低い方を紹介
(発表)して、「唯一の、合理的な説明」と書いている所に不満しちゃいます。)
私が思った、割りと(!良い加減ですなあ。)合理的な説明は、「この症例の方た
ちは、実は植物状態ではなかったのではないだろうか。当時は、脳死の概念もなく、
植物状態を証明するだけの検査の検査の方法も(今もそうですが、今以上に)不十
分であったのだから。」というものです。しかしながら、この患者さんたちをタイ
ムマシンに乗せて現代へと引っ張ってきて、自分の手で診察・検査している訳では
ありませんので、私の考えも長倉記者さんどうよう、可能性の域を出ません。
ま、ですから、この患者さんたちが実際どうであったかはおいておきますが、少な
くとも長倉記者さんの推測はレトロスペクティブにみる限り、怪しい、のです。

長くなりますので、ここではこの一例にとどめますが、「植物人間の維持装置のス
イッチ」とか、他にもおやあっと思うところは何カ所かありました。

こういったことは、この記事の流れからみますと枝葉末節のことに思われるかも知
れません。実際そうでしょう。この記事は、植物人間に題材を貰った「死にゆく人
の尊厳」を扱った物と読んだからです。(違ってたりして)
が、記事のなかでの主張に説得力を持たせているのは、これらの症例であり、その
解釈なのです。それらをぬきにしますとこの記事の説得力はだいぶボルテ−ジが下
がりそうです。今の時代から振り返ると、ヘンだなあ、と思うような解釈が、この
記事を今の時代に読む人にある種の先入観を与えかねません。下らないことですが、
枝葉末節にこだわったのにはこんな理由があります。
そしてもう一つの危険性は。繰り返し言いますが、この記事が脳死問題と絡めて読
まれることです。脳死についてヘンな先入観は持ってほしくありません。この記事
の内容・推測が真実であったとしても、植物人間と脳死は直接の関係はありません。
こういうと、何かフシギな感じを受けるかも知れません。脳死は(それが本当に死
かどうかの問題はありますが)「死」を扱っている物であり、植物状態は一見脳死
に似ていますが、あくまでも「死にゆく人間」の問題だからです。もちろん、死を
扱っていますので、間接的には関係大いにありますよ。

最後に。
私脳死賛成者のように思われるかも知れませんが、違います。まだ、態度を決め兼
ねています。
また、植物人間の安楽死賛成者に思われるかも知れませんが、それまた違います。
それから。長倉記者さんの記事に「いちゃもん」を付けたので、あの記事には反対
と思われるでしょう。ですが、安楽死にかんしてはそう意見の違いはありません。
やっぱり書き方、医学的にみた時の内容のあやふやさ、そういった部分への反発が
強いだけです。
何度も繰り返しますが(これは誤解されると、大幅に困っちゃうので)、当時の長
倉記者の当時の記事には全く責任はありません。そもそも、署名記事での、他人の
意見の表明をどうこう言うのがおかしいくらいなものです。日本は、言論の自由の
国ですから、人の意見に反対の時はそれを自由に表明できるのと同様、自分の意見
は自由に表明できるのです。「あんな記事を発表しやがって、ケシカラン。」なん
て言う気は全くありませんので。
あいや、長かったなあ。ご免なさい。
 あっちを立てればこっちは立たず、下腹部立てればお腹は立たず つちねこ

#0033 sci1902  8902130949

さてと。
前回までのアップでは、脳死についての概念をとにかく分かり易く説明するために、
誤解される恐れがありながら、わりといい加減な説明をして参りました。
その後の色んな人の意見を聞きながら、詳しい(?)細かい所に言及しようと思っ
たのですが、どうも私のアップは人々の書き込みの意欲を低下させる働きがあった
ようです。
しばらく意見の表明を控えますが、あんまり放置しておくと本当に誤解されちゃう
かもしんないので、一応次回予告をしておきます。

死の定義とは何か。−ポイント・オブ・ノ−リタ−ンを死の定義としてよいのか。
          実際ポイント・オブ・ノ−リタ−ンと言うのは、拡大解釈す
          れば「生きている人」をも含められる便利な言葉で、脳死判
          定にも簡単に拡大できます。ところが、この言葉「死」の定
          義を簡単に説明するには実にまた便利な言葉であります。そ
          こで前回は深い注釈も付けずに用いたのですが、立花氏の本
          にその危険性が述べられており、「死とはポイント・オブ・
          ノ−リタ−ンではない」とすら書いてあります。この点につ
          いての説明を。
脳死は一瞬にして起こるのか。
         −前回、普通の死に方、普通でない死に方、の所での脳死の扱
          いは心臓死と同列でした。もちろん心臓死も一瞬にではなく
          徐々に起きるのですが、脳死に比べると比較的明確に分かり
          ます。脳死は、どの時点を取って脳死と言えるのか、につい
          て述べたいと思います。

                   ロトのつちねこ

#0034 sci1598  8902170131

  75年当時の医療状況を取材して発表した長倉記者の、当時の記事には全く責
任はない。しかし、危険だ。話を複雑にするだけだ−−−となると、14年も昔
の記事をUPした私が「ぱ−そん・おぶ・の−たりん」だったのかしら。(おっ、
ネコのケンカが始まるのかな!?)

  門外漢の私には、医学的な論争をするだけの知識を持ち合わせていないので、
これはパスします(ま、脳死と植物状態とが違うということ程度は漠然と判って
いるつもりですが)。そこで、とりあえず何でこんな昔の記事をUPしたのかに
ついて説明します。

  長倉記者の記事の中にもでてきますが、現代人にとって「死ぬ人」とのつきあ
いはとても希薄になっています。核家族化がすすみ家庭に老人がいない。いても
具合が悪くなると病院に任せきりになる。結局、「死」について考えるとき浮か
んでくるイメ−ジといえば、ドラマの中の死であったり、TVゲ−ムの中の死で
しかない人が(私も含めて)大部分なのではないでしょうか。つまり、人ごとで
しかないのです。そのような「死の基本知識」に無知な人間が「脳死」について
討論する時、とんでもない「トンチンカンな」ことを考えたりしないでしょうか。
その「基本知識」について参考になりそうなものが私の場合、あの「ジャ−ナル」
しかなかった(情けない)のがひとつ。

  確かに「脳死」と「植物状態」は違います、わけて考えるべきです。それでも
あえてUPしたのは、つちねこさんが「当時の植物人間が今の医療水準で診断さ
れた時に『植物状態』なのかどうかその前提すらあやしい」と言われたように、
「今の『脳死患者』が15年後(おそらく医学はもっともっと進歩しているでし
ょう)に診断された時、本当は死んではいなかった」というケ−スが絶対にない
と言えるのだろうか、と考えたからでもあります(これは決して今の医療に不信
感を抱いているという意味ではありません)。

  「脳死」と「植物状態」とをいっしょくたにしているとのご指摘に対しては、
誤解されかねない点があったことは認めます。初めて読まれる方はご注意くださ
い。しかし(これが多いな)、「不治の病を患い、しかも意識がなくなったら人
生はそこまでだ、それ以上の延命処置を施してもらいたくない(本人は理解でき
ないのだから)。いさぎよく死ぬことが人間的だ」との風潮が、当時たしかに起
こりました。幸い(?)にして社会的な合意を得るところまではいきませんでし
たが、もしそのようなことになっていたら記事の最後の部分のような状況が現実
のものとなっていたでしょう。

  つちねこさんは文中のケ−スについて「植物状態ならばそのような感情を持た
ないはずなのに持っている、だから植物状態ではない」とのお考えのようですが、
「首を切り落とした鶏だってしばらく動いている。あれはもう生きているとは言
えない、感情なんてものじゃない」との解釈が当時の医学会の主流だったと思う
のですが(違ってたりして)。そこで、二通りの解釈が成り立つ場合の一方だけ
しか取りあげていないとの批判の回答になります。もう一方の解釈はあえて書く
までもないほど世間の常識として定着しているのではないでしょうか。「こうい
う解釈もできるんじゃないだろうか、考え直してみませんか。」と長倉記者は問
いかけているのです。誘導尋問ではありません。

  長くなってきたし、夜も更けてきたし、私の脳ミソの文章編集能力はA4で1
ペ−ジ位しかないので最後に「植物状態の判定基準」について、1987年5月21
日朝日新聞夕刊3頁「人命は重し…されど救命医療の現在」で藤田真一編集委員
が「日本脳神経外科学会が1972年(わざわざ西暦に直した)にその定義を次のよ
うに決めた。内容は今も全く変わりない。」としてジャ−ナルの記事と同様のこ
とを書いています。

  UPしてから考えたのですが、このような内容の記事を目にすると医療の現場
に携わっている皆さんにとって不快感しかわいてこないのでしょうか(つちねこ
さんはおなかを、きをつけさせていないとのことでホッとしています)。これも
朝日の大熊一夫記者がその昔、精神病院にニセアル中患者として入院しその体験
と精神病棟の実態を記事にした時も、ずいぶん現場からの反発があったと聞きま
したがもうすこし患者の身になってくれてもいいのではないかなと、ふと思いま
した。

  というわけで、「猫猫対決」はありませんし、「交換日記」もするつもりはあ
りません。期待していた方、ごめんなさいね。

  今まで書き込まなかったのはツメを研いでいたんじゃないぞの<  猫  男  >

136番の資料はこんどの日曜日にでも読ませていただきます。

#0035 sci1902  8902170558

猫男さんから、お返事頂きました(あ、別に、私へのメ−ルだった訳ではないので
すが)。猫キックも、猫パンチもおたがいくりだすつもりはないとわかり安心しま
した。 ↑知ってます?面白いの。ケリケリケリッて、抱えて蹴るのです。

 植物状態について、(実物は見たことありますが)余り知らないのですが、一言
弁解させて下さい。長倉記者の記事の場合は、当事者でない私は知りようもありま
せんが、「植物人間」と一方で明記しておきながら「意識がある」という推測を他
方で展開するという書き方に、「おや、この記事は信用できないな。」と、感じた
のです。
(脳死もそうなんですけど)植物状態は、「脳のここそこがだめになったら植物状
態」と、概念としてはいわれてます。が、実際臨床上では、そんなにきれいに(cle
-ar cutで)脳が一部分だけやられることはむしろ少ないことのようで、結構判断 
に迷うようです(それだからこそ、診断基準が決められるのでしょう)。 
 分かりづらい書き方しかできなくてすみません。実際には現場では考えないであ
ろう、純粋科学的な観点から私は「植物人間」の記事を批判したのです。よく言い
ますが、例外のない病気はないので、(実際に臨床をしていると結構ぶつかるので
すが)理論上はありえないことが現場ではしばしば起こります。
 これだけのことを踏まえて、改めて考えたのですが。症例報告であれば、「植物
状態でありながら、内的意識があったと推測される一例」とかなんとか題付けて、
発表するところなのでしょうが、一般向けの記事で、このような推論を主張するの
はどうでしょうか。(やめれ!とか、主張してけしからん!とかいっているのでは
ないことは前にも述べた通りです。)猫男さんを含め、この記事の説得力に結構納
得されてしまうのではないでしょうか? そこに私は、やっぱり危険性を感じたの
です。この危険性、他の方には了解不能のモノなのかしら。

 植物状態の基準の話しありがとうございます。縮刷版でも捜してみようと思いま
す。それから、前回のアップで、私はおお嘘を書いてしまいました。当時「脳死の
概念はない」と書きましたが、一般的ではなかったのですが、調べている人はいま
して、脳死の概念は随分むかし(それでも人工呼吸器ができてからのようです)か
らあったものです。文意を損なわずに訂正するなら「なく」の前に「一般で」を入
れなければなりません。すいません。慎んで訂正します。

死ぬ人への意識の薄くなってきたことについて。
 核家族化が進み、そういう風になってきたのは事実です。そうなるとどんな人が
「死の基本知識」に通じていることになるのでしょう。病院で、何人も人が死ぬ瞬
間を見ました。死にたてほやほやの人を自分の手で解剖したこともあります。しか
し、長倉記者の記事に出てくる看護婦ではありませんが、死に直面すればするほど
医療関係者の場合「なれ」が出るようです。少なくとも医療関係者が基本知識に通
じている人に全員あたるとは思えません。
 私は、トンチンカンを怖れず討論するべきと思います(あ、あのジャーナルの記
事をアップしたのは無意味だ、と言っているのではないですよ)。真面目な討論な
らば、討論するうちに色々知ることも出てくると思います。実際今回も、死生観に
ついては、ジャーナルの記事が出てきましたよね。

 医療関係者の「お腹起立、大層の礼!着席っ(お、いかんいかん)」について。
私が、今度のケースで「起立」しなかったのは、直接自分のことを言われたからで
はないからでしょう。ですが、こういう批判や他の医療機関の話しを聞いた時に、
それを「他山の石」とする(このことわざこういう使い方でいいんですよね?)か、
「対岸の火事」と見るかで随分違うでしょう。今回は、そのことを考えさせられま
した。こころある医者(そんなモノがこの世に存在するかどうかは別として)は、
「人の振り見て我振り直せ」すると思います。
 「もう少し、患者の身になって」と言われます。色んな方から言われます。がっ
こでもそう習いました。いわく、「人間は平等だと言うが、この世で絶対平等にな
りえない関係が3つある。教師と生徒、警官と市民、医者と患者。君達は、患者の
身になって・・・」。実際医療をしていると、この精神を忘れることが多いもので
す。研修1年目(もっとも医者らしくない医者)の私ですらそうなのですから、エ
ライ「先生」たちは・・・。中にはムカシトカゲさんが言われたようなトンデモナ
イ患者さんもいるにはいるんですが、こういう批判の多くは医者の慢心に原因があ
ると思います。

 猫男さんの危惧されている、「現在、脳死と判断された人が、15年後には本当
は死んでいなかったと判断される」という怖れ。私は、今の判定基準では十分起こ
りうることと思います。それゆえいっそう、医療関係者以外の医学的な討論への参
加を期待します。ちなみに私は、医学部6年間で、直接脳死について学んだのは僅
か0.5コマ45分です。脳死に関しては、医者とそうでない人の差は少ないと思 
います。パスなさらずに、参加してくださることを期待しています。

最後に。ニワトリの話しつながりがよく分かりませんでした。ご免なさい。
                         つちねこ

#0036 sci1260  8902180219

 つちねこさま どうも有難うございました。返事さしあげるのが遅く
なり、まっこと申し訳ございま千秋楽。深く深く反省しており益荒雄。

 朝日ジャーナルの記事に対するつちねこさまの気持ちが、どういう背
景からのものなのか、ある程度は理解できた気がいたします。うまくは
言えませんが、それはドクトルつちねこの Profession からダイレクト
にほとばしる、まさにやむにやまれぬ「気持ち」なのだと感じました。

 ちなみに、ウチでは家内とつねづね、「竹内基準でええべェ、すぱげ
てーはミイトソオスに限るべェ、のーしんなったら臓物くれてやんべ」
と話しております。もちろんトカゲの心臓はつくりがええ加減ですし、
最近は肝機能数値も尿酸値も高度成長なので、あんまし役にはたたんと
思いますが..。でもこうした判断は、脳死に関する深い知識を背景と
したものではなく、単なる「気持ち」からのものであることは確かです。

 いきなり話がえんたぷらいずワープ10しますが、ブータンの切手に
杯に目や臓物を盛った絵柄のものがあります。日本人画家のデザインに
よるものですが、その心は、ブッダへ深く帰依したものは自分の肉体を
も信仰のゆえに投げ出す、捧げる、ということだそうです。ブータンと
同じ上座仏教に属するスリランカで献眼運動が盛んであることと、あい
通じる「気持ち」がいたします。

 現状では、脳死は、尿酸値と同様の臨床検査数値および所見の累積(
あるいは総合)であるでしょう。また、べじーについても、それは同様
のことであるでしょう。どんどん軽くしていって、最終的に、ある人が
「健康」であるという他者からの判断も、自覚症状の有無の表明を含め
た「外部からみる」所見の累積であるでしょう。
 手塚大先生のブラックジャック(黙祷!)で、深昏睡患者の脳と、そ
の患者の息子の脳を電極で直結して意識の存在を確認するという乱暴な
話がありましたが、そんなテクがたとえ生まれたにせよ、確認者は本人
以外の他者であるわけです。「自己」は、このように、他者との関係の
中で、はじめて出現する現象なのかもしれません。自己とは、このネッ
トでの書き込みであり、同僚への話しかけであり、あるいはガンマGP
Tがなんぼ、という数値を検査会社のプリンタに打ち出すことであるの
です。つまり、世界内存在としての人間をもしも仮定するとしたら、そ
の人は、他者へ「自己の存在の請求証」を突きつけ続けることではじめ
て、その存在を現象世界に対して主張できるのだといえましょう(はい
でっがに詳しい人がいたらごめんなさい、わたしの用語法はでたらめで
す。また自分の言っていることも信じていません)。
 さらに言いましょう。自己とは情報の出力であり、その情報とは、契
約書の書き方をめぐる取引先への要請であったり、パンツにおもらしを
したわが子への八つ当りであったり、あるいは役所へ提出した確定申告
の書類であったり、ベッドの上でとられた血圧・体温・脈拍・呼吸数で
あったりするのです。つまり、他者に対する自己の死とは、あくまで他
者からみた自己の各種パラメーターの存在様式にしかすぎません。呼吸
がとまった、心停止した...それとも...といったクライテリア。

 わたしは、生・死の境界とはパラメーターの取り方であって、自己の
パラメーターのクリティカルポイントは自己で決定したいと思います。
現在は、多くの場合医学によって個人の死が専断されているのでしょう
が、代替的な判断基準もあってよいと思います。
 脳死とは、医学の中のタームであり、もしも医学が現在の地位を転落
したら、脳死は単なる概念になってしまうでしょう。現在の日本には、
人間が脳死できるだけの経済力がありますが、この先ずっとそうかは知
りません。そして、臓器を提供してもいいべェという考えは、医学とは
まったく別のエートスから出力されるべきなのでしょう。

           なんなんだか、自分でもわからん ムカシトカゲ

#0037 sci1598  8902190625

◆まばたきで本ができた・難病主婦が闘病記・パソコンとワ−プロ連動

  手足は全く不自由。口もきけない。筋萎縮性側索硬化症(ALS)の主婦が、
ただ一つ動く「まぶた」によってつづった闘病記が一冊の本になった。
                                              (87年1月6日朝日新聞)

◆パパは生きていた!・全身マヒの科学者、タイプで手記・植物人間の観察覆す

  脳卒中の後遺症で全身がマヒ、言葉も失って三年余も「植物人間」と思われて
いた科学者が、軽く触れるだけで文字を打てる電動タイプライタ−を得て、自助
具の助けを借り、訓練の結果、ある日突然、すばらしい手記をつづり始めた。そ
れは「植物人間」どころか、知的活動が病後いささかも損なわれていなかったこ
とを証明する、高い水準のものだった。
        (切り抜いた時に書くのを忘れたので日付不詳、77年頃の朝日新聞)

◆全身マヒで学究生活・交通事故にあった元大学教授

  交通事故のため12年間寝たきりの学者が、口だけで操作できるかずかずの自
助具を考案、身の回りの用事をこなすだけでなく、タイプを打ち、弟子たちの英
語論文を添削するなど、学者として寸分もゆるぎない充実した日々を送っている。
                                          (76年11月12日朝日新聞)

>ムカシトカゲさん
「情報を出力できなくても人間として生きているんだ」といいたいのです。この
3件の例では幸運にも出力手段を得ることができ、「その存在を現象世界に対し
て主張する」ことができました。厳密な意味での植物人間ではないかもしれませ
んが、外部から判断することがいかに危険かという例です。健康な状態では、な
かなかそこまでは考えがおよばないものですね。でも臓器移植そのものについて
反対しているのではありませんよ。

>つちねこさん
「植物人間と明記しておきながら意識がある、という推測を展開する書き方が信
用できない」とのことですが「植物人間である」との診断をしたのは長倉記者で
はありません。

「植物状態の患者があのような(綿棒・医者嫌い)反応をするのはよくあること
で、あれは意識でも何でもないんですよ。どこぞの神経を刺激すると本人の意志
に関係なくピクピクッと動くのと同じですよ。人間は自然現象にさえも意志を感
じてしまうものですから(なみだ雨...とかね)意識があると思いたい気持ち
は判りますが、何も感じないでただ死を待っているだけの状態です」と反論なさ
ると思ってました。つちねこさんはあの反応は感情があってした行動だと感じら
れたのですね。鶏の話はこのことを言ったつもりですが、まだ判らなかったら削
除してください。私も、首のない鶏が走り回っている光景に出くわしたことはな
いもんで。

  こっそり「植物状態の定義」をアップしちゃいます。

  日本脳神経外科学会が47年にその定義を次のように決めた。内
容は今も全く変わりない。
 《脳に損傷を受けた人が次の状態に陥り、3カ月以上、改善され
ない場合を言う。
(1)自力で移動できない
(2)自力で飲食できない
(3)大小便失禁状態
(4)目で物の動きを追っても認識できない
(5)「口を開けて」などの指示に応じても、それ以上の意思疎通はできない
(6)意味の通じる言葉を話せない》

植物状態患者つくるな(人命は重し…されど 救命医療の現在:4)

             87.05.21  夕刊 3頁 らうんじ (全2215字)


  猫キックは本気でケンカしているときも飛び出すワザなのでしょうか?
子ネコ同士がじゃれている時しか思い出せません。しばらくネコを飼って
いないので忘れてしまいました。

                いかんいかん「交換日記」になってしまう<  猫  男  >

#0038 sci1260  8902191224

 猫男さま 私が2つ前の発言で書いた内容で、関連箇所をアップいたします。

 「自己とは、このネットでの書き込みであり、同僚への話しかけであり、ある
 いはガンマGPTがなんぼ、という数値を検査会社のプリンタに打ち出すこと
 であるのです」「自己とは情報の出力であり、その情報とは、契約書の書き方
 をめぐる取引先への要請であったり、パンツにおもらしをしたわが子への八つ
 当りであったり、あるいは役所へ提出した確定申告の書類であったり、ベッド
 の上でとられた血圧・体温・脈拍・呼吸数であったりするのです」

 死者からも、それが腐乱死体であっても、それは情報の発生源です。猫男さん
はある人からの情報の出力を、何らかの「意志」ないし「思考活動」の存在に限
定しているようですが、わたしは「情報」の語をそのように限定しては使ってお
りません。たとえば猫男さんの血糖値は、猫男さんから出力された情報です。同
様に、何千年も昔のミイラも情報を出力します。

 そして、脳死・心臓死あるいはもっと別の死の基準を考えるにしても、いずれ
にせよある個体が自分以外のものの生死を判断するということは、生死判断の対
象となる個体からの情報を他者の立場で判断している、という太古から現在に至
る状況を述べ、そして現状では判断者の視座として最優位にたっているのが医学
であるという点を言いたかったにすぎません。つまり、判断者の専横に対する懸
念であります。

 というわけで、猫男さんとはあまり考えが異ならないような気がしますが、い
かがでやんしょうか。
 でも、ALSというとS・ホーキングを思いだしますね。この大変な宇宙論学
者も、吐息など各種のセンサを使ったワープロを車椅子につけている写真が、ニ
ューズウィークに出ていました。私の友人の脳性マヒの男も、NAMCOの「ト
ーキング・エイド」を愛用して電話魔になりました。

 ところで、猫男さまは難病・障害者福祉の問題に関心が深いとおみうけしまし
た。もしも、ボランティア・ワークなどをやってはおられませんでしょうか。実
は、わたくしが関係しているさる財団で、難病の子供の支援運動をやっておりま
して、それこそ猫の手も(失礼!)お借り、いえご助力たまわれれば大変うれし
いのであります。夏場に子供達を遊園地に連れていくなどのプランがあります。
ご関心があれば、改めて連絡先などをアップいたしますが...
 何卒、何とぞ、よろしくお願いつかまつりまするう。
                          ムカシトカゲ

#0039 sci1598  8902192215

  ムカシトカゲさん

  そうですね、「判断者の専横に対する懸念」については一致できそうですね。

  ボランティアについては強い関心を持って、視力障害者と知り合いになり点字
を覚えたりしたのですが、生半可な善意だけでは続かないものだと痛感しまして
現在休止中です。どちらかというと、コタツで丸くなっているほうが好きなもん
ですから。わ  わっ、地震だ!(取り乱してごめんなさい)
            わ
  でも、関心だけは持ち続けていきたいと思ってます。そして可能な限りの協力
も惜しまないつもりです。どうぞ練習コ−ナ−にでも基調発言として書き込んで
くださいませんか?  おおぜいの方が読んでいるネットですから、きっと協力者
が現れると思います。

          立花隆の「脳死」を買ってきました。充電しなくては<  猫  男  >

#0040 sci1902  8902192239

これも愛っ。あれも愛っ。たぶん愛っ。きっと愛っ。てなわけで、早くも愛の交換
日記の様相を呈して参りました。
植物人間の記事の話し、あんまりほじくりかえしていると段々話しが横道にそれて
行きそうな気がしますし、どんどん脳死コ−ナーから離れて行きそうですが。

>「植物人間である」との診断をしたのは長倉記者ではありません。
 というご意見です。私もそう思います。長倉記者が診断したはずもないでしょう。
その病院の医者が診断した症例の話しについて、長倉記者が別の文献から引用して
きたものですよね。長倉記者が診断したとはとうてい考えられません。
 しかし、その話しを「植物人間の話である」と長倉記者は書いています。ここで、
長倉記者はこの話しが「植物人間」のことであると、認識し、植物人間の話として
読者に紹介したのではないでしょうか。そして、同じ記事(記者の主張ですから、
論説と言った方がいいのかも)のなかで、同じ症例(植物人間として紹介した話)
についての自分の推測を「唯一合理的な推測」として紹介(主張?)しています。
 診断したのが長倉記者ではなかったから、植物人間として紹介したのは長倉記者
の責任(この言葉嫌いですが)ではありません。そう思います。しかし、どんなに
前提条件と外れた推測をして、「これが唯一合理的な推測である」と主張しても、
前提条件を本人が断定したものではなかったら良いのでしょうか。
 この記事に限らず、読み手は記事の正確さに批判的な目で読むことが必要であろ
うと思っています。これは私個人の持論で誰もが同意してくれるものとは思ってい
ませんが。医学的知識のそう多くない人、記事の内容を盲信してしまう人、そうい
う人がこの記事を読んだら植物状態について誤った認識を持つことが危険なのです。
長倉記者の推測が本当に「唯一合理的」なもので、「植物人間は意識を持っている」
ととられるのが怖いのです。
 これは、脳死のことよりも、報道の正確性に関連する話かもしれません。報道の
力は大きいものがあります。誤った世論を導くことすら可能です(戦前のあるいは、
戦中の報道の話をよく聞きますが)。この記事には、一方の主張しか載せないとい
う点で、その危険性を感じます。前にもちらっと言いましたが、安楽死推進者のこ
の2例に対する解釈や推測を聞いて比較してみたいと思ったのは私だけでしょうか
(う〜ん。そうなのかもしれないなあ。)ま、ただこれは署名記事で、記者の主張
を述べた記事ですから、読む方がそういう危険性を承知しているとの前提のもとに
書かれたものでしょうけれども。
 話しがどんどん、脳死を離れて関係ないほうへいってしまいました。
 私が、長倉記者の発表そのものをけしからんといっているのではないことが分かっ
て頂けるでしょうか。安楽死推進論の肩を持っているのでもなければ、長倉記者の
推測の肩を持っているのでもありません。この記事のもつ危険性を知ってほしいだ
けなのです。う〜ん。やっぱり他の方には、この記事の危険性は了解不能なのかし
ら。(「了解不能」は「理解不能」とは同意ではありません。私の感じる危険性が
妄想的な思い過ごしである、という意味です。私の考えているエラ〜イことが、諸
君に理解されてねぇのか、という思い上がった意味ではないですので間違えないで
ね。間違えられたらかなPわ。しくしく。)
 もう一つ、繰り返しになるけど言わせて下さい。臨床の現場では、理論的にあり
えないことがしばしば起こります。そういう意味では、長倉記者の推測も絶対違う
なんて言えません。私の推測が(植物人間というのは誤診である。はたまた、植物
人間に感情は起こりえない。)正しいとも言えません。本当の所は、現代の科学(
医学)ではやぶの中でしょう。当時の医学ではなおさら大きなやぶの中だったでしょ
う。で、歯切れが悪いのですが、この問題の正答は求められないように思います。
そういう意味で、当時の長倉記者に責任はないと考えている訳です。よく分からな
い?う〜ん。文章作成力が貧困かんなのですみません。(この文、自分が読まされ
たとしてもよくわからんだろうなあ)
 しつこいですが、報道の話し。報道された記事についての正確性は、その内容に
いくらか詳しい人がフォロ−すればより高いものとなり、危険性も薄くなります。
医学に限りません。政治・経済、なんでもそうだと思います。
 毎日配達される新聞もそうです。一誌だけ読んでその記事をうのみにすることは
危険であると考えています。(朝日の方、すいません。信用していなくて。)これ
は、私個人の考え方で、受け入れられない方もいらっしゃるとは思いますが。そん
な訳で、私は、朝日の他にもう一誌新聞を講読しています。それによって、少しは
記事をうのみにするという危険をおさえられると考えているからです。(そりゃ、
2誌でも危険ですけどね)新聞に対する、この私の考え方を、あの長倉記者の記事
に対する私の考え方と平行に考えて頂ければ、私の言いたいことちょっと納得して
貰えるかしら。

 植物状態の定義のアップありがとうございます。47年て、昭和ですか? 結構、
甘い基準ですね。ずっと経過をみていれば誤診率もすくないんでしょうが、ポッと
患者さんを見せられてどおだと言われたらきっと誤診率は高くなりそうです。

                     ながかったですね つちねこ

#0041 sci1902  8902200007

個人の死に対する判断者の専横、ですか。
 専横の意味は、「判断者の恣意的なクライテリアの設定、変動のおそれ」という
ことでしょうか。それならば、今回、脳死という新たな死のクライテリアを決める
に当たって、医者だけでない、多くの人の意見を聞きたいというのもそういった判
断者の専横を防ぐためではないでしょうか。
 今は、死の判定はほぼ医師に委ねられています。現在の日本では、そういった判
断をするのには適当な職業であると考えられているのでしょう。個々の医師は(資
質としてではなく)資格として死を判定する権限そして義務を持っています。そし
て、個々の人が死ぬ時は(今の所ほぼ全例が心臓死でしょう)、それにあたった医
師が死の判定をしていることと思います。そういった、個別の例に対する発言では
ないととりたいのですが、ムカシトカゲさん、猫男さん、宜しいでしょうか。
 ムカシトカゲさんのアップでは、個々の例の死のクライテリアを個人がとりたい、
というような表現がありましたが、現在の状況ではそれは難しいことだと思います
し、また、すっきりとそれができる方法も思い付かないのです(あ、それとも、心
臓死か脳死、はたまた将来出てくるかも知れない××死の選択を個人に委ねてほし
いという意味なのかしら。それならば、当然そうあるべきと思います。)極端な例
ですと、心臓が動いていて、呼吸もしていて、なおかつ本人が生前(?)「外から
みて意識がなくなった時が俺の死んだ時だ」と死のクライテイリアを決定したから
といって、医者は「ご臨終です。」とは言えないんです。文章読解力の不足かもし
れません。そういう意味じゃないんですよね? もう少し詳しく教えて下さい。

 現在、脳死について私は主に医学的な見地から意見を述べています。それは、医
者の間でもあの基準で本当に脳死として良いのか意見が別れているからですし、こ
のネットに参加している人に医者がどういうことを考えてあんなことをいっている
のかを知ってもらいたいからです。脳死に関しては、医学的でない意見も重要です
し、必要なものと考えます。しかし、全く医学的な議論なしで脳死問題を話し合う
のはそれこそ極めて危険なものになりかねません。ともに、必要なのです。
(私個人は、頭脳の関係から、医学的論点を見極めたうえでそれ以外の論点を勉強
しようと思っているのは、一番はじめのアップで言った通りです。)

 たくさんの発言をお待ちしています。
    あ、こりゃゴミだったかな        つちねこ

#0042 sci1260  8902210144

 ううう、また自分の発言が他人さまに追突してしまった。なんでぼ、ぼ、ぼくは
ぶわかなんだろー。かちんと来たのだったらごめんなさいまし。どうかどうかお許
し下せーまし。おら、悪気でいったわけでねえだ、ほんとだてば、信じてけろ、お
らはただ猫男さんの書き込みにつちねこさんがあんましあったかくねー言いようす
るもんだから、それにつちねこさんの資料アップにあんまりにもRESっこさねー
もんだから茶茶いれてみんべ、と思っただけだぁ。ほんにほんに、こんなぼかすか
言われてちかれたびーな気になるもんでねえだ。あんまりスゴまんでくんろ。おら
しりとりで多量のESCシーケンスばらまいたことで反省して頭抱えてんだ、はァ、
うつのカカアがしゃあぷのWD650っつうわーぷろ買って仕事してんだが、そい
つの通信ソフト買ってモデムっこさつなげて、おら驚いただ、こんなゴミだらけの
モンがまんして読んでた人がいたんだげな、おら世間さまにすまねえだ、わーぷろ
で通信なすってるつうつちねこ閣下にもすまねえだ、うるうる、もう脳死のことで
はうかつな茶茶いれねーだ、かんべんしてけろ、はァ。

 というわけで、トカゲも手をする足をする?のですが。

 わたしが念頭に置いていた「専横」の意味は、つちねこさまの解釈の「判断者の
恣意的なクライテリアの設定、変動のおそれ」というのとは、ちょっと異なります。
誤解を恐れずに言えば、すべての判断とは、少なくともいくぶんかは恣意的なもの
であり、同じ条件下でも変動しうるものです。それは、医師であろうと宗教家であ
ろうと、あるいは他のプロフエッショナルであろうと、同じことです。「判断者の
恣意的なクライテリアの設定、変動のおそれ」があるから、判断者が信頼できない
と批判しているのではありません。それらの存在は当り前のことです。医師に誤診
があり、判事に誤判があり、新聞に誤植があり、相撲に行事指し違えがある。そい
つにいちいち不信を表明していたら、きりがありません。

 わたしがいいたかったのは、死の判断は、たいていは自己が行わずに他者が行っ
てきた、という事実そのものです。こと死に関しては、自己の自由意志がなかなか
関与してこなかった。それは、医学及び医療資源が現在よりはるかに貧しかった時
代にあっては、死の延長が非常に困難であったという単純な現実に基づくものです。
しかし、医学は大変な進歩を遂げて、個体の生から死への移行過程に人間の意志が
かかわれるチャンスがずいぶん増えてきた。ところが、かかわる主体は、やはり他
者でありつづけている。死にゆく個体は、なんというか、主体的な作業をしている
のではなく、単に読まれるのを待っているフロッピーディスクみたいな存在のまま
なのです。ぼくらは、こと死に対しては、パソコンに対するのと同じ様に主人面し
たユーザーには、大抵の場合なっていません。
 そして、現在、個体の死に対する人間の意志決定の現場で、医師及び医師が担う
死の標準は、判断主体・基準としてきわめて特異な高い地位を占めています。それ
は、死期の順延に対してきわめて功績が高かったことへの栄誉の礼であるのでしょ
う。それを、専横という言葉で表現したのはわたしの語学力不足です。はっきり、
謝ります。専横には、わがままという意味しかありませんから。よりニュートラル
にいえば、「ゴールキーパーがは唯一人」というたとえにでもなりましょうか。こ
の状態はつちねこさまがいう
>今回、脳死という新たな死のクライテリアを決めるに当たって、医者だけでない、
>多くの人の意見を聞きたいというのもそういった判断者の専横を防ぐためではな
>いでしょうか。
という配慮によっても改善されません。ただ、医者が医者として以外のさまざまな
価値判断の物差しをしょいこむ、あるいは身につけるよう迫られるだけでありまし
ょう。現代において、死をほとんど独占的に扱う医療従事者は、きわめて過大な要
求を一般人からつきつけられているとしかいいようがありません。それだけ医者は
信頼されている、ということと表裏一体なのですが。

 そして本題のわたしの懸念とは、たとえ上記のような「多くの意見を聞く」など
の努力がはらわれたにせよ、結局医師は医学的知識を抜きんでて持っているがゆえ
に医師なのであり、医師が判断のよりどころとするものは、最終的には医師のプロ
フェッショナルとしての立場であろうということです。そして、たとえば宗教上の
理由からとか、あるいは単に個人的趣味からとかで、医の倫理を否定するような要
求(あくまで自分のこと、です。自分の子供など他者の受ける医療行為までコント
ロールするなど論外!)が患者から出てきた場合(健常な時に書いてあった要望だ
とか)、いったい医師はどうするのかということです。医学が、個人の自由と対立
する局面に巻き込まれた場合、医師はどう行動するのか、という点です。

 わたしの根本的な思いは、自分の死は自分でデザインしたいということです。な
んというか、たとえば「厚生省基準でござるぞ、下にィ下にィ」みたいな感じの死
を画一的に適用する気分は嫌だということです。死の統一が、わたしの不満です。
個々の死のクライテリアを個人が決定したい、というのが、まさにわたしの理想の
死亡環境です。たしかにつちねこさまの言うとおり、
>現在の状況ではそれは難しいことだと思いますし、また、すっきりとそれができ
>る方法も思い付かないのです
が。うるうる。
 ひとつには、自分が死にいくベッドから出力するさまざまな臨床検査数値の、
予想される様相についてくわしくなる、つまり医学知識を勉強することがあげられ
ましょう。それにより、死のメニューの幅を拡大する、といったらおかしいでしょ
うか。次善の策は病院のオープン化で、自分が意志の疎通をしっかりとしているか
かりつけの医師に死の臨床を担当してもらう、ということでしょうか。

 そして医療行政に期待したいのは、一般人のさまざまな、素人考えからする要望
ではあっても、自己への医療行為に関する個人の主張というものを、さまざまなレ
ベルで受け止めるシステムをもうけて欲しいという点でしょうか。看護婦さんは、
しばしば労働が大変きつく、また医師、患者に対して重層的な役割を期待されてい
ます。厚生省は医療費の抑え込みに大変意欲的ですが、これは非常に不愉快なこと
で、むしろ国民生活の上からいえば後顧の憂いなく医療の恩恵にあずかれるように、
たとえば緩慢な死に対して心理臨床のできるスタッフをそろえるなどの出費が堂々
とできるようになってほしいと思います。

 しかし、本来医学的問題についておしゃべりする会議のところを、大脱線しても
うしわけない。これからは医学上の論点について勉強させてくだされ。

                   ひさびさに頭脳を使った ムカシトカゲ

#0043 sci1260  8902210314

猫男さま 練習ボードの522にお願い話をアップしましたので
ぜひぜひ読んでくだされ
                ムカシトカゲ

#0044 sci1902  8902210437

            歯切れの悪い私
 植物状態の問題については、どうも平行線のようですね。私は、あの記事に危険
性を感じるのですが、RESを読まさせて頂いておりますと、どうもそれは私の杞
憂であり、他の方には受け入れられない考えのようです。物の言い方も冷たいよう
で、気分を害された方すみません。(でも、スゴンでなんかいませんけど)
 植物状態について、「理論的にはどーだこーだ。」といっておきながら、「臨床
の現場では、理論とは違うことが簡単に起きうる。」だとか、良くわかんない説明
で「当時の長倉記者には責任がない」だとか。うーん。私のアップ読まされた人は、
きっとわけわかんなくなっちゃったと思います。なぜゆえ、あのように歯切れが悪
いのでしょうか。
 植物状態について、私が良く把握していないことがタネの一つです。最終的にベ
ジになってしまったのはともかく、ベジを直接診療(受持ちとして)したこともな
いですしね。現在の医学でも「これこれだろ、きっと。」くらいの理解しかなされ
ていません。「理論と、現場の解離」の原因の一つはここにあるのだと思います。
学生時代、私がお世話になった脳外科の教科書は「あの」竹内一夫教授が編者なの
でありまして、1984.4の時点で、「脳死は脳機能の不可逆な喪失である」と、
堂々と書いてある本なのです。で、この本の植物状態の項をみますと、理論的な話
では私が前にアップしたような内容が詳しく書いてあるのですが、一行「植物状態
に陥ってもある程度意識、脳機能を回復する」こともまれではあるが起こる、こと
が記載されています。さて、これはどう理解したら良いのでしょう。前のページに、
「植物状態とは、〜〜の不可逆的損傷を受けた場合である。」と明記してあるのに。
起こる可能性から言えば、長倉記者の推測は「トンチンカン」の可能性がきわめて
高いのがはっきりしているのですが、絶対違うとはいいきれない根拠がここにあり
ます。本当に、植物状態と、意識を持つことが同時に存在しえないのだろうか。ま
た、逆に、この教科書に載っている「意識を回復した元植物状態」が、本当に植物
状態だったのか、実は誤診じゃなかったのか、そういうようにも疑っています。私
のあの記事に対する意見が、結構タマ虫色なのは、ここにその原因があります。だ
からと言って、あの記事を鵜のみにはしませんけど。
 折角、この教科書の例を引いたのでついでにいっておきましょう。そんな訳で、
私は今の竹内基準に疑いを持っています。猫男さんの言われる「15年後に、実は
違っていた」となる恐れがあるからです。15年先の教科書には、「脳死は、〜〜
の不可逆的な機能喪失である。だが、まれに、生き返ったりすることもある。」な
んて、書かれるような事態は避けたいからです。しつこく、「医学的観点」の話を
医学関係者じゃない人に求めるのが分かって頂けるでしょうか。一部のエライ学者
先生、教授先生にだけ任せておいていいものではないのです。一部の医者には、「
しろーとが何を言う。私達がだいジョブといやぁ、だいじょぶなのだ。」と考えて
いる人もいるようです。そうでなく、万人に納得できるものが要求されるのではな
いでしょうか。

>ムカシトカゲ大人
 資料をアップしたのにRESがないとのことで、ご心配頂きおそれいります。私
も、そうすぐに読んで反応があるとは思っていませんでしたし、簡単かんたんと言っ
ていましたが、そうむちゃくちゃ簡単なもんでもないと思っています。(でも、医
者との差は少ないのは事実。)
 あ、あと、死の基準を個人に委ねるのは、やはり難しいのだと思います。(うち
の父も、死ぬ時くらい自分で決めたい、てなことを言いますが。)

 さて、いつも話が長くなってまして、ナニガナニヤラわかんなくなっちゃってま
すので、最後に私の意見をまとめておきます。
 1.脳死と植物状態は違う。
 2.長倉記者の記事は、読む人に誤った観念を与える危険性がある。
 3.脳死は死だと思うが、今の基準、判定方法には危惧を抱いている。
 4.今考えられている脳死とはどんなものか知ってほしいので、資料をアップし 
   た。


 意見を述べるにあたって、きわめて冷静にしたつもりです。腹部起立もしていま
せんでしたし、スゴンだりもしていません。が、それが冷たいものいいととられた
のならばしょうがないでしょう。それは私の落度です。
 どうも、不愉快にさせてしまった皆さん申し訳ありませんでした。私が、しゃしゃ
りでてから、脳死コーナーもふたたび脳死状態に陥っていきそうなムードで(あち
こちで、タケシタ流をしているのですが)、申し分けなく思っています。願わくば、
どこぞのなかよしネットのように、討論そのものが嫌われるムードにはなりせんよ
うに。
 しばらく、謹慎します(最近はやりだなあ。復活の暁には、つちねこ7をなのる
のだろうか。)
        エラソーに恩賜するつもりなどない     つちねこ

#0045 sci1260  8902230307

ええん、ええん、つちねこ先生に嫌われてしまったーあ...
どうか、お顔をみせてくんなんし。
              ムカシトカゲは復活の呪文をとなえた

#0046 sci1598  8902242018

  ♪ Love is over 悲しいけれど  終わりにしよう  きりがないから
  ♪ Love is over ワケなどないよ  ...
(ラヴ・イズ・オーヴァー:作詞=伊藤  薫:日本音楽著作権協会[出]許諾番
号=sci1598←うそうそ)

>ムカシトカゲさん
  ごめんなさい。私に読解力がないばかりに同じ文章を二度もアップするという
お手数をかけ、あまつさえつちねこさんにスゴまれてしまい(あ、つちねこさん
は「スゴンでなんかいない」と言っておられますが)、私も「千秋楽の益荒男」
です(何のこっちゃ)。失礼しました。お恥ずかしい。風呂が沸いたら入りたい。

  小児難病支援について。財団が政財界の有力者によって発足というのが、いさ
さか引っ掛かるのですが(資金なら自分たちでいくらでも集められるんじゃない
の?)、小異を捨てて大同につきたいと思います。早々にパンフレットを取り寄
せ検討してみます。普通会員ならなれそうです(勤労奉仕はカンベンしてね)。

>つちねこさん
  「判断者の専横」云々は「死んでもいないのに、死んだことにされちゃかなわ
んよ」くらいの意味にとってください。関連発言22番12−13行でつちねこ
さんが言われているのと同じことと思いますが。

  私もこれまでの書き込んだ内容を整理しましょう。面倒なので、つちねこさん
の「まとめ」にかぶせます。手抜きをしてごめんなさい。

1.脳死と植物状態はちがう。
    (私もそう思います。ただし、医師つちねこと素人猫男の理解のしかたがど
      こまで同じかは判りませんが)
2.長倉記者の記事は、読む人に誤った観念を与える危険性がある。
    (後述、結局この部分だけが相違していると思うのですが。)
3.脳死は死だと思うが、今の基準、判定方法には危惧を抱いている。
    (後半は同意見。前半は勉強不足のため「?」、あえて否定はしない)
4.今考えられている脳死とはどんなものか知ってほしいので、資料をアップし
    た。
    (まだ全部に目を通していませんが、感謝してます。立花隆著「脳死」とあ
      わせて早急に読みます。)

  そこで2.ですが、長倉記者の「植物状態、と診断された患者に意識があった」
との記事に対し、つちねこさんは「意識があるのだから、植物状態という言葉は
使うな」と言われます。しかし当時の医学会は「このような反応では意識がある、
とは言えない」という考えかたが一般的だったと思うのです(私の事実認識に誤
りがあるかもしれません、その時はゴニンなさい)。

  88年 6月22日朝日新聞夕刊に、「脳死患者の瞳孔が変化した、脳がホルモンを
出した、呼吸を始めた−−厚生省基準に疑問続々」との記事が載っていますが、
それについて基準作成に参加した学者の一人の「呼吸したというが、脊髄反射で
一、二度腹筋が動いただけ。瞳孔の変化は脳幹以外の反射が考えられる。視床下
部ホルモンなどについては何ともいえないが、確認した範囲では基準から外れる
脳死は一例もないと思う。基準を見直す必要はない」との談話がありました。こ
の意見が長倉記者の見方に対するもう一方の見解ではないでしょうか。そしてそ
の見解は医学界を代表する意見として(少なくとも素人にはそう思えます)一記
者の見解とは比較にならないほどの重みを持つと思うのです。

  つちねこさんはご自身について「歯切れが悪い」と、繰り返し言われますが私
はその「歯切れの悪さ」に医師つちねこの、人間としての良心をみます(愛の告
白ではありませんよ)。長倉記者が「肩書や経歴が立派な人々」に訴えているの
もまさに、この姿勢だと思うのです。それだけ難しい問題なのでしょうね。素人
が無責任なことを言ってひっかきまわしたようです。私もしばらく謹慎しましょ
うか。復活時に<猫男7>では芸がないので<鼠男>とかね。そのあとは牛男、
虎男、兎男....猪男まで用意しています。

  ♪ Love is over 最後にひとつ  自分をだましちゃ  いけないよ
  ♪ ...... 元気でいてね  Love is over ....Oh ..

                                        備えあれば憂いなし<  猫  男  >

#0047 sci1260  8902242227

  おいかけーて、おいかけーて、すがりつぅきぃたいぃのぉ...

 どうにも、こうにも、わたくしは自分がまいた種のもたらした結果に、恐怖
しています。つちねこさんの書き込みが途絶えたことに、自責のストレスをた
めこんでおります。簡単にいえば、落ち込んでおります。どつぼ。

>つちねこさま わたくしの舌足らずを、かんべんしてやって下さい。えらそ
うな講釈をたれたことを許してください。練習コーナーの天文ボードの話題で、
勝手なことを書きまくったのを、許してください。わたくしがいいたかったの
は、医者の拒絶とか、医師による死の判定の否定ではありません。単に、死は
基本的に患者の自己決定権の範囲内に置くべきであり、その自己決定にあたっ
ての基準において、サイエンスとしての医学は全能たらんとすべきではない、
という自分の思いを述べたかっただけです。そして、医学が持つもうひとつの
側面である医の倫理(これも医学だと思うのですが)、フィロソフィとしての
医学については、多いに期待をしているのです。脳死が、医学の内部的テーマ
なら、それは社会性に乏しい学術的話題です。そうではないところに素人の参
加できる部分があると思って、混ざり込んだだけなのです。これからも、いろ
いろと教えて下さい。おねがいします。

  おいかけーて、おいかけーて、すがりつぅきぃたいぃのぉ...

>猫男さま レスポンスありがとうございます。あの財団は、河野一郎をはじ
めとする出発当時の有力者があの世にいってしまい、発足の時に積んだ基金(
いまでは東京郊外の2DKマンションが買えるかどうか、程度のカネ)のほか
は、ささやかな収益事業しかなく、早い話が中小企業と一緒です。自然保護も
そうですが、運動というのは、より多くの人に関心をもってもらうことです。
私は一介の会員ですが、何卒よろしくおねがいします。

  おいかけーて、おいかけーて、すがりつぅきぃたいぃのぉ...

 せっかく、cats と lizard  が、ヒトの命のことを話し合えたのです。
 つちねこさんも、猫男さんも、謹慎だなんておっしゃらないで..。ほら、
猫は7つ命を持っているというではありませぬか(あ、それは化け猫の場合か
な...)、復活をなさってくださいまし。
 わたくしは、つちねこ閣下が電話交換機の向こうにお姿をかくされて以来、
先日のやりとりを思いだしては呵責の念にさいなまれています。わたくしとて
30男、分別配慮が run short of しておりましたことは承知しているつもり
です。わたくしは、みなさんに対して甘えておったのです。

 おいかけーて、おいかけーて、すがりつぅきぃたいぃのぉ...

                送り名「馬鹿の大フーガ」ことムカシトカゲ

#0048 sci1902  8902250014

 メール機能がほしい、今日このごろ。
>猫男さま
ご指摘の2番の件ですが。
 はっきりいって、私には分からないのです。当時の医学会の解釈はそんな物なの
ですね。ですが、それをどこまで信じられましょう(ましてや、自分に都合の良い
解釈しかしない、お偉いさんの解釈ですから)。あの記事を読んで、植物状態とし
たならば、rooting、sucking refrex(おっぱい吸い付き反
射−もちろん赤ん坊の。成人男子のは反射ではない。)などで、説明がつくかどう
か、本を引っ張り出して調べました。いまだにわかりません。
 知識としては、植物状態と意識の存在は両立しえないものです。また、統計的に
も、両立する可能性はきわめて少ないのです。ですが、0ではありません。ここに
問題がある訳です。
 個人的には、記事を読んだ限りでは、意識がありそうな気がしました。引用され
た文献の筆の運びの上手さもありましょう。そこで、これは植物状態ではない症例
ではないか、と、疑ったのです。(疑ったからって、何ができるわけでもありませ
んが)。お分りでしょうか。「意識がある」と疑った時点で、私は植物状態を排除
しています。長倉記者は、意識があることと植物状態であることを並列しています。
症例報告をするならともかく、それをもとになにかしらの意見を展開しようとする
に当たって、どちらがより科学的な態度(真実はどうなのかは分かりません。長倉
記者の考えが本当だったのも知れません)でしょうか。私が言いたかったのは、そ
の点であります。
 これ以上は、繰り返しになりますのでやめときましょう。
 ついでに、脳死者の呼吸回復について。
 おえらいさんの解釈、私は疑問を持っています。状況について書かれたもの(要
は、立花氏の本)を読むと、あの解釈は幾らなんでもひどいのではないでしょうか。
それについて、あからさまな反対が出ないのも、いわば医学会の体質なのかもしれ
ません。

>ムカシトカゲ大人
 私は、別に書き込みの内容について怒ったり、ムカシトカゲさんを「嫌ったり」
して、書き込みを停止したのではありません。(う〜ん。書き込みそのものも、昨
日も天文コーナーに書き込んだし、今日も脳死資料コーナーに書き込んだし。しょ
せん、私の謹慎なんてこんなものょ?)。
 書き方について、いわれたことが響いています。私自身、真面目な話しをする時
の私の書き方は非常にきつい(某氏の言葉を借りれば、トゲがある)と、うすうす
(うそうそ、はっきりと)きづいていたのです。これについては、以前も「書き込
みを自粛します」と脳死コーナーに書きましたが(その割りにゃ、良く出てくると
いう話しもある)、他の人たちが書き込みにくい雰囲気になっているからで、その
元凶はといいますと、やっぱり私の書き込みにある訳です。
 しばらくホトボリが冷めるまで(この言葉好きょ?。どんなことでも時間が解決
してくれる、と信じれば、世の中怖くない)ひっそりしていよう、と思ったわけで
す。今のところ、脳死のコーナーは脳死しかかっておりますので、新しい血が入っ
て生き返るまで私も少し充電するつもりでおりました。

       オートサルーン 近新 中の        つちねこ
       ↑福岡、佐賀、長崎県人なら分かるかな?

#0049 sci1223  8902262342

 立花隆の「脳死」をやっと読み終えました。

 文庫本が出ているとは知らなかったもので、分厚い本をかってしまい、持ち運び
に不便なこと・・・。しかし、手ごたえ十分というか、たっぷりと時間を取られて
しまいました。立花氏の執念というか、ジャーナリスト魂には脱帽してしまいます
ね。よくぞ調べたり、よくぞ書いたりというところですか。

 この本を読んで、まず感じたのは「脳死」に大していかに理解していなかったか
ということでした。(なんかこのへんはつちねこ氏の言う子供の感想文のようです
ね)脳死と植物人間の違いなど、ある程度わかっていたつもりが、全然わかってい
なかったのですね。植物人間は「生きている」が、脳死者は「死んでいる」という
程度の認識しかなかったのがよくわかりました。立花氏がくどいほど書いているの
は、要するに、「脳死」と言うのは人間の「死」を宣言するのだから、決して間違
ってはいけない。まして勝手に決めてはいけないということですね。

 この本の膨大な資料も、つちねこ氏のUPされた資料も、要するに、人間の「死」
を判定するのがいかに困難かということを言っているのです。大それたことかも知
れませんが、素人の・素人による・素人のための脳死講座を開きたいと思います。

(1) 人間の「死」について。
   従来の基準では、人間の「死」は心臓が止まった時点で確定されてきたが、
  それでは決められない状態が現われてきた。すなわち、心臓をはじめとする器
  官は生きている(何等のダメージを受けていない)が、脳は死んでしまってい
  るという状態です。これは通常は起こらないが、人工呼吸機などの発達により
  出てきたものです。まあ、常識的に考えても脳が死んでしまえばコントロール
  器官がなくなってしまうので、生きて行けないのですが、人工的な機械を使っ
  て生かしているという状態ですね。
   ~~~~~~~~~~~~
   そういう意味で、植物人間とはまったく違います。植物人間は、自分の力で
  生きています。呼吸にしろ、内臓の働きにしろ自分でコントロールしている状
  態です。ただ、その人の内部で意識があるかどうかはわからない。つまり、外
  部からみて判断できる情報が無いからです。現在の医学では、筋肉の動きを通
  してしかその人の意識がわからないのです。

      例えば、手の動きとか、表情(顔の動き)・目の動きとかがなければ
     その人に意識があるかどうかわからないのです。よくSF等で脳波を分
     析して考えていることを知る話とかがありますが、現実にはとてもそこ
     まではできないようです。
      動物と植物を区別しているのは、自分の意志によって動けるかどうか
     ということです。植物人間は、生きているが、自分で動けないという状
     態を意味しています。余談ですが、そういう意味だと世の中にうようよ
     いるような気がしますね。

(2) みんなはなんで脳死問題を重要だと考えているのか。
   それは、一言で言うと「人間の生命の貴さ」に関する問題だからです。従来
  の生死に関する基準が崩れてきたのです。上で言ったように、従来の基準で言
  うと「生きている」人が、新しい基準では「死んでいる」と言うことが有り得
  るのです。
   何でこういう新しい基準が必要になったかというと、臓器移植のためです。
  素人考えで言えば、「臓器移植をするために、心臓を取り出したいが生きてい
  る人から取り出せば殺人になってしまう。そこで「脳死」と言うものを定義し
  て、その人は死んでしまったことにしてしまおう。」というところでしょうか。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人間の「死」を宣言できるのは医者というプロフェッションだけです。しかし、
新しい基準(考え方)が出てきて、それが妥当かどうかを決めるのは決して医者で
はありません。もちろん権力者でも、法律家でもありません。要は、みんながそれ
を認めるかどうかです。いま、「脳死」に対して問題ありと考えているのは、一部
の人でしょうが、自分がその当事者あるいは家族になった時を想定すると、その意
味の重大さがわかります。つまり、昔だったら「殺人行為」になるものが、今後は
堂々と行なわれる・・・。恐ろしいことですねぇ。

 私のような医学の素人としては、「脳死判定」というような純技術的なものはさ
ておいて、基準の決め方とか手続き等がオープンにされないままに決められてしま
っているのが問題だと思います。考えてみれば、これは日本の政治全般に言えるこ
とではないか・・・、なんて諦めないでみんなで考えましょう。

         みんなで脳死問題を盛り上げて行きたい ひらひら でした。

#0050 sci1260  8902270137

きょう、脳死再論を買ってきました。でも、読むのはホネそー。
というわけで、本日は妻からも見放されたばかばかしい駄洒落を
えっぱつ...

「また脳がひとつ死んだ」(ユパさま)
    風の谷の脳死か

あああ、馬鹿馬鹿しいッ。反省。   ムカシトカゲ

#0051 sci1004  8902271653

 ここのやりとり,おもしろく拝見させていただきました.(おいおい!)

 いくら,全自動乱入マシンといえどもここの会議は敷居が高かったりするので
すが,おみうけするところ,少々腸捻転気味の感じもしますので,ちょびっとだ
け言わせて下さいまし.

 どうも,今に至った原因は,つちねこドンが長倉記者(たしか今は論説委員で
したっけ?)の記事を「危険」と言ってしまったことにあるようですね.で,ム
カシトカゲさんの,”危険な箇所とはどこぞ?”という問いに,つちねこさんが
答え,その答えに猫男さんが疑をはさむ.という構造ですね.

 実は,僕も「危険」とはいかないまでも,「大丈夫かなあ」と思ってしまった
クチなんですよ.だけど,どこの箇所がと問われても,明確に答えられない自分
に気づいてしまうんです.(なんかのCMみたいだなや) 強いて言えば,読後
感にあやういものを感じてしまった,というのが近いでしょうか.以下,あくま
でも,私個人のあの記事を読んでの感想です.

 長倉氏の記事は名文です.臆面もなく言わせて貰えば,感動しましたし大変印
象に残りました.しかし,感動し過ぎてしまったのですよ.ここのところをうま
く説明できないのですが,例えばエミー賞を授賞したような社会問題を鋭くえぐ
ったドキュメンタリーを見,大いに感動して更に涙し,しかし感動して涙した自
分に満足し,さっぱりしてしまって,結局社会問題を考えるのにはほど遠い自分
の意識に気づくことがない・・・・・こうなると心理学の領域になってしまいそ
うですが,感動することと満足することとは,表裏一体なような気がするのです.

 長倉記事の件ですと,あの記事は感動させるつまり満足させるだけあって,読
後感が自己完結してしまって,問題意識が外に向いてくれないんですよ.つまり
あそこで扱われている事柄の医学的認識は刻々と変化しているのにも関わらず,
自己完結した問題意識では,その変化を変化として認識できるだろうか・・・・
という疑念がどうしてもぬぐい去れないのです.

 えーい,まどろっこしい! いってしまへ!! 以下,問題発言です.

 なんでこんなことになってしまうのか.失礼を顧みず言わせて貰えば,長倉氏
の文章は,情に強く訴えかけてくるのです.これが要因だと思います.感情過多
な文章っていうのは,往々にして読者の思考停止を誘いますからね.おもいっき
し思考を進めなければならないこのテーマに於て,思考停止を誘うような記事を
たたき台にすることに,一抹の不安を覚えるのはぼくだけでしょうか.
 もちろん,こちらのネットにおいでになる方は,高い読解力をお持ちで,僕が
感じたような危うさを,ぼくがお節介にも危惧する必要はなさそうです.だから
少なくともこのネット上では,その「危険」は危険でないということで,僕自身
は納得したいと思うのですが.(オレは思考停止にならんかったという方は,も
ちろんそのことを誇っていいと思いますです.)

 まあこれは,読書量の少ないグータラ院生のたわごとなのですが,どうもつち
ねこさんもアップの印象からしますと,似たような感想をお持ちのようですね.
彼も,一応具体的に危険な箇所を挙げておられますが,個別的に見ると,なぜそ
れが危険なんだか僕にはよくわからない.つまり,大上段にふりかぶった総論的
「危険」と具体的各論的に医学的問題点を挙げておられる「危険」との関係が,
いまひとつ不明確なのです.このあたりの不明確さが,猫男さんの疑念を産んで
しまったのではないでしょうか

 これも,つちねこさんが「危険」の内容をハッキリとおっしゃらないからなの
ではないですか? どうもそこに腸捻転の原因がありそうです.

 ということで,つちねこさんの言われる総論的「危険」とはなんぞや!!と質
問して,一旦 タイプを休みます.

 お!これでは誘導尋問か!? よそのネットでは猫を名乗る院生浪人
 あー,メールが欲しいなあ.demone kore kakunoni 5H kakattanoyo!

#0052 sci1902  8902272049

ふんふん。危険の内容ですか。
 そもそも、私の最初の方のアップをみていただければ分かるのですが、わたしが
ムカシトカゲさんの質問に答える形で述べています。つまり「二つの考えがあると
きに一方だけを主張するのは危険である」と。これが、総論的(?)危険でありま
す。このことを具体的に示すうえで、長倉記者の医学的に誤っているところを2−
3挙げました。ここで言う、各論的医学的危険性とは、「このように間違っている
可能性が高いことをも抱合せで主張しているのですよ」というものです。本来の筋
からいけばこれは従にあたるものでしょう。また、このての医学的に誤った(?)
推論や当時の常識をもとにしたところなど、他にも多々ありますが、これらは従で
あると共に、揚足取りになることを怖れて敢えて全て挙げたりしなかった訳です。
 あ、また長くなりそう。まとめましょう。
1.長倉記者の記事で、「誤った概念を与えるおそれがある。」と書いたのは、あ 
 くまでも一般論としてです(院生浪人さんの言われる「大冗談」もとい「大上段」
 の方ですね)。
2.医学的各論の方は、それにたいしては「従」の関係にあたります。が、この記 
 事全体を評するうえで、「誤った概念」の具体例として必要であったものです。
 従にして例だが、不要ではない(お、小説のタイトルみたい)。いんや、むしろ
 本当なら積極的に必要とされるのでしょう。私の、挙げ方が中途半端な訳です。
 どっちつかずで。これが、人々の疑念を呼び、両者を混同した物言いが続く元凶
 の一つになっていた訳でもあります。

こんなところで、質問に答えたことになるかしら。タケシタ流が得意だからって、
質問の答弁までタケシタ流するほど愚かではないつもりです。

 ところで、長倉記者の記事のことなんですが。院生浪人さんは「思考を停止する」
てなことを書かれています。まあ、基本的に院生浪人さんも思っておられることな
のですけども、それは名文ゆえのことであり、あの文は批判をしがたい気分になる
ほどの説得力を持っているのです。それは、もちろん長倉記者の責任でもなんでも
なくて、非常に良い文だとは思っています。その一方、読み手が、それに流されな
いだけの気持ちを持っていないと簡単に流されちゃうパワーを秘めている文である
とも思いました。つまり、読んで、そして「ああ、凄い。そのとおりだ。」と、こ
れで終わってしまったりするやもしれないのです(そーゆーこといいたいんでしょ?
 その意見には全面的に賛成ょ?)。

 院生浪人さんは、「こちらのネットにおいでになる方は、高い読解力をお持ちで、
僕が感じたような危うさを、ぼくがお節介にも危惧する必要はなさそうです。」と
言われております。私も、その点については賛成でありますが、それにはやはりこ
の手の記事を読む際の前提条件と言いましょうか、背景となる知識と言いましょう
か、そういったものがあれば、なお流されにくくなるのではないかと思います。
 私自身、このネットの質の高さに感心しておりまして、また参加者の皆さんの文
章の読解力にはおろろきの目を見張ることが多かったのです。が、杞憂かも知れま
せん。今回この記事をみた時に「もし自分が全く医学的知識がなかったとして、こ
の文を読んだらどう思うだろうか。非常に説得力のある文で、頭から信じてしまう
のではないだろうか。こりゃあ、危険だわ。」と思ったのです。医学的知識などな
くても流されない人は流されないでしょう。ですが、チェックをしようと思う時、
知識があったほうが楽であることはたしかであると思います。(これも、杞憂なの
かしら)。
 ともあれ、この話はそろそろ打ちどめにしたいと心底感じている次第であります。
(この話が終わらんことにゃ、脳死の話が進みませんがな)私の杞憂は、皆さんに
は言わずもがなの失礼を言っていた訳ですので、心よりおわび申し上げます。
 猫男さんは、この記事には危険性を感じない、そういう意見のようです。この点
については前回頂いたアップに書かれていました。私は、あいかわらず危険性があ
ると考えていますが、今述べたような理由からきっとそれは杞憂だったのかもしれ
ません。私も、もう自分の意見の概要はすべてアップしましたので、何も言いませ
ん。ですが、危険性があるという考えをやめた訳ではありませんので、そういう考
え方をする人もいる(たとえ、それが一人でも)、という事実だけは認めてほしい
と思います。いろいろな考え方の人があってもいいのではないかと思います。
 なお、この文を読んで物言いのひどさに不愉快になられる方もいらっしゃるかと
は存じますが、やっぱりこーゆー書き方しかできないので、そこは許しておくんな
まし。

   相変わらず、謹慎中と言いながら、毎日アップしている。
   これが謹慎とはどういうことぞ?        の、  つちねこ

#0053 sci1902  8902281853

 てえわけで、そろそろ長倉記事談議は終わりにしたいと思うのでありますが、い
かがなもんでしょ。猫男さん、ムカシトカゲさん、院生浪人さん。
 それにしても、基調発言のultra7氏はどこへいってしまったのだろう。地
上の仮の職業である新聞記者のお仕事がお忙しいのかな(スーパーマンの職業と同
じなのね)。ultra・・に変身しようMNEMO電話ボックスがとーめーだか
らできないでいるのだろうか。    (↑ニモと発音して)
 終結するならば、基調者にも同意してほしいもんでござります。スーパーマンや、
ウルトラマンに似た超人(直訳すると、「どはずれ人間」になると、中島らもさん
が言ってましたな)で、AS*HIMA*という人物が某長野方面で活躍している
という噂を耳にパッチンとはさみますが、(もしかして、朝日新聞の関係者かしら?
それともペンタ?いやひょっとしたらサランラップかもしんないな)東京地方MN
EMO出現してあらまほしけれ、でございますな。さあ、皆で声をそろえて叫ぼう。

  「デスクなんか恐くない! 出てこい出てこい、池の鯉。手熊熊矢今手久万球
   磨屋根、ざーけるざーける、るるるるる」(←ま、無責任なこと)
 あまりにその声のさうざうしければ、「あなかまー」かなんか叫びながら出現さ
れるとぞ思ひけれ。(←かかりむすび?)

 あ。これ、記事についてに書き込みを止めさせようというものではありません。
まだかきたいかた、意見のあるかたどうぞ、どんどん書き込んで下さい。
     ガスを止められそうな            つちねこ

#0054 sci1004  8903010555

つちねこさま,わたしのトンでもない問題発言を好意的に補足賜りまして,
わざわざ恐れ入ります.しりとりなら称号を差し上げたいくらいです.

 しりうまに乗るようですが,私の問題発言の真意はつちねこさんの私に
対するお答えのアーティクル(#52)の後半部分とほぼ同じです.不快
に思われた方(特に猫男さんを念頭に置いているのですが),そういう事
ですので,ご理解ください.

 で,つちねこさんのお答え自身は納得がいきません.「二つの考えがあ
る時に一方だけ主張するのは危険である」ですか.これ,危険ですかぁ?
どう考えたって,意見表明は一つのスタンスでありまして,あれもこれも
とスタンスを広げたら,そりゃああんたコウモリになってしまいますよ.
つまり「二つの考えがあるときに一方だけ主張するのは当り前である」と
いうことですね.長倉記者のスタンスはなんら非難されるものではないで
すよ.・・・・と一応反論しておきますが,それ以降の(つまり私への答
え以降ね)ご意見は,私の問題発言の真意と近いもので,「流される危険」
は,大いに納得できるものです.
 でも,なんで「流される危険」性を最初に指摘されなかったのですか?
そうすればまた別の展開が・・・・・と思うのですが.わたしが勘ぐるに,
「二つの考え云々」はタテマエっぽく感じられて,「流される危険」が本
音っぽく感じられるのですね.その辺いかがなんでしょうねえ.(こんな
こと聞くの大きなお世話ですねえ)

 というわけで,長倉記事談義打ち止め動議なんですが,別に打ち止めと
宣言しなくても,問題があればそのまま続ければいいのだし,新しい談義
を始めたいのなら,有志が新しい話題やきっかけを提供すればよろしいの
ではないですか.もちろん並行しててもかまいませんが.でも,基調発言
の趣旨からは少々はずれ気味ですねえ.

 ふんだば,みなさんおこんねーでくだせえましょ.もう畑荒しなんて,
しませんからぁ,勘弁してくんなまし.

でも答えにくい事を平気で質問して,駆け足で逃げる院生浪人であった.

#0055 ultra7   8903011347

 「あなかまーーーーーーーーーーーー」

 済みません、長く留守にしてまして。
 正直、地球の仕事が忙しかったのです。そして、もう一つ・・。サイエン
スネットに伝わる恐ろしい言い伝えに従っていたのです。それは、

 「ultraの書き込むコーナーは、必ず白ける・・・」

 今までultraの開いたコーナーは、数知れず。しかし、その総てが恐
ろしいことにシラケテしまった。(ナチス奇想科学なんかみてくだせえ、そ
の代表だで。まるで、老いの繰り言、オラの独り言コーナーだでよ・・)

 私が基調発言したもので、皆様の絶大なご協力の元50以上も続けていた
だいたのは、多分これが初めてではないでしょうか。(ネット慣例表現集に
従って言わせて戴きます。ウル、ウル、ウル)

 素晴らしい意見がポンポン出ているのに、なんで私何ぞがでしゃばって、
また「脳死しちゃったなあ」コーナーを増やす必要があったのでしょう。い
くずんぞ、ない。

 だから、書き込みが完全に止まるか、呼ばれるまで出るのをよそうと、ハ
クション大魔王を決めていたのです。

 以上で、長々のえくすきゅうず終わり。(続く)

#0056 ultra7   8903011351

 さて、気になっていた書き込み(一応全部読んではいました)に対する、
私の思いを書いて、皆様の熱い書き込みに対するお礼に代えたいと思うので
す。

 まず、一番気になってしまったのは、#46番の猫男さんの書き込みでし
た。理由は単純で、中に引用されている88年6月22日の朝日新聞夕刊の
記事というのは、私の記事だからです。

 もしかしたら誤解を招いちゃったカナと思ったのです。(この誤解という
のが、私の誤解という気もかなりしますが・・一応書かせて下さいネ)

 筆者がこんなことを書くのは、自分の手品のタネを明かしてみせたがるヘ
タな奇術師みたいでイヤな感じですが、あの確かに医学会を代表していて、
重みのある武下浩教授のコメントは、私は間違っているのでは、思うのです

 (さすが、ご本職つちねこドンは、「おえらいさん」の解釈に疑問を持っ
ておられるとな。スルドイなあ・・・・。ごりっぱ!!。あからさまな反論
がないのが医学会の体質ですと!!。これ以上、私が何を蛇足をつけんこと
があるか、いやない)

 それは、記事を良く読むと分かると思いますが、本文中は「一分間に数回
のペースの自発呼吸が10分間続いた」となってます。

 1分間に数回の呼吸が10分間、ということは、最低でも数十回は、呼吸
が続いた計算になり、「脳死患者が呼吸をしたというが、脊髄反射で一、二
度腹筋が動いただけ」という、武下教授のコメントと明らかな食い違いを見
せています。

 この観察結果は、88年6月9日に金沢で開かれた日本麻酔学会の席上発
表されたもので、武下教授もそこに同席されておりました。なのに、コメン
トが発表内容と食い違うのはなぜか・・・。

 これ以上のヘタなたね明かしはやめときます。この記事は、立花隆氏の近
著「脳死再論」にも何故か収録されまして、p226から、p234にかけ
てキツーイ反論が出てますので、(皆さん、分厚い文庫を読み終わりました
ら、もう次回作がでてますので、続いてどうぞ!!、また、雑誌・現代思想
の88年8月号「脳死」特集でも同様なキツイ意見を述べてます)そこのと
こだけでも本屋かなにかでどうぞお読みください。

 さすが立花さんでして、新聞を丸写しにせず、発表者にもう一度事実関係
をちゃんと問い直してから本を書かれたようです。そこに立花氏の結論が書
かれています。

 ですから、この武下教授のコメントに対する、私のコメントは、立花さん
にお任せして建前は、ノーコメントにしたいと思います。

#0057 ultra7   8903011352

 それから、終わるはずの「猫猫トカゲ大論争」ですが、最後にウルトラの
最後っぺを書かせてください。

 長倉記者の「植物人間」に対する記事ですが、これは「植物人間」の記事
と考える限り、私は余り間違っているとは感じなかったのですが・・。

 というのは、猫男さんが、捜し出して来て下さった#37の貴重な「植物
人間の定義」を見ますと、「口を開けてなどという指示に応じても、それ以
上の意志疎通はできない」とか「意味の通じる言葉を話せない」などと、あ
りますから、これを逆に読めば「口を開けて」という言葉くらいが分かる程
度の淡い意識はあっても「植物人間」なわけでしょうねえ。

 また、口を開けられる程度の意志のある運動はできてもいいしようだし、
言葉すらも「あなかまーー」というくらいなら話せても、いいみたいですね
え。ですから、長倉記者が書いた「植物人間」の皆さんが、本当の「植物人
間」であっても、その定義にはまったく抵触しないのでは・・・。

 まあ確かに、全部反射にすぎないというような解釈も成り立ちはしますが
・・・・。

 蛇足ですが、そういえば、脳死患者でも結構反射があって、器用な人は脳
死しながら、腕を持ち上げて見せちゃうし、中にはむっくり置きあがっちゃ
う怖い人までいるそうです。脳死患者も静かにしてる人ばかりでなく、何す
るかわからん人も多いようです。専門医が言うには「普通の人なら、死んで
るとは、信じられないほど動く」とな。(まあ、こりは、反射ですが・・)

 ああ、それから植物状態から、元気になられたフランク永井さん(一時は、
脳死状態などとも確か呼ばれていたなあ・・)みたいな方どころか、「脳
死」から元気に回復してしまったという人もいるようです。

 前にもこの話しネットに一回書いた気がしますが、

「生きるってすばらしいね」(日本看護協会出版会)

 という、19才だった望月名子さんが、交通事故で脳死と判定された後、
意識が回復(!)、今では一人で歩ける(!)という感動の本があるのです。
(エラソウに言って、実は私も未読です。済みません)

 では、この方が竹内基準でみて脳死だったかというと、脳死ではなかった
可能性が確かに高いとは、私も思います。しかし!、それが今、「誤診だ」
などと言えるのは、この方がそのまま解剖されず、また、臓器が移植にも回
されず、回復するのを結果的にみれたからこそ言えることなのではないでし
ょうか。

 やはり、臓器は一度摘出してしまえば「死人に口なし」と言えるのではな
いか・・、そんな気が私はするのです。

#0058 ultra7   8903011400

以上、思うところありて出家した、ultra7改め、ultraノコンジン
であった。

#0059 sci1902  8903020109

あーショックだ。1時間以上かけて打ち込んだアップの入ったフロッピーを壊して
しまった。おまけに、気を取り直して打ち込みはじめたらいきなりワープロがハン
グアップしてしまった。結局、2時間費やして、脳死とかしりとりの入ったフロッ
ピーを壊しただけ、という結果になってしまいました。
再度気を取り直して、打ち込みます。

院生浪人さんへのお返事
「一方の意見を主張するのは、当り前のことだ。両方主張したらコウモリだ。」
とのご意見です。原則として、私もそう考えているのでして、以前の私のアップを
よく読んでいただければお分かりになると思いますが、そもそもこの記事は朝日ジャ
ーナルの署名記事ですから、一記者の主張をするのになんら不都合はないのであり
ます。
私は、各論を主とせず、あえて一般論を主としたのですが、これは、当時と今の状
況が違うこと、記事の考え方には概ね賛成できるところがあること、医学的各論の
方は言わば主張に説得力を持たせる「枝葉末節」のことであることなど、以前のアッ
プを読んでみて下さい。
この記事のケースで、私が危ない危ない、というのは、間違った可能性の大きいこ
とをベースにして意見を展開しているからです。ただ、当時の情報や認識では、い
たしかたのないところがあること、この記事を現在の状況で討論のたたき台(?参
考資料)とすること、そういった状況を考えると記事そのものには責任はない、と
そんなことを前に言いました。こういうところから、各論には深く突っ込みたくは
なかったのです。その辺の事情は、言ってあったつもりなのですが、私のアップの
仕方が不味かったようで、どーもうまいこと伝わっていなかったようです。

「流れを云々・・・をメインにしなかったのはなぜか」
これは、私の方法が不味かった、不手際であった、と、それが第一の原因でしょう。
流れの凄さ、言い換えれば説得力は、この記事は凄いものがありまして、本当、ぼ
んやり読んでいたら、鵜のみにさせられそうです。説得力の一因となっているのは、
やはり臨床例の解釈でありまして、これを全くおかしいことではない、と読むのが
このネットでは大勢のようです。(私を除いて全員かな?)。

ultraノコンジンさんへのお手紙
 どーも、「ノコンジン」というのは、「ペキンゲンジン」とかの一種のように見
えてしまい、(失礼ながら)笑っています。私が、「その場限りの改名だろ」と言っ
たとかいわないとかのデマ(???)が流れておりますが、細かいことは気にせず、
たたりをおよぼさぬようお願い致します。

なるほど、そういう見方もあるのですね。しかし、その見方は、植物状態の定義を
全く信頼しての見方ですね。すると、植物状態の基準には合致するが、臨床像は、
定義とは矛盾するということになってしまいますので、その考え方は、余り支持で
きません。定義(意識はあってはいけない)にしたがって作られたはずの基準にし
たがって観察すると、定義とは違ってきてしまう。どこかおかしいのではないかな、
と思いませんか? おかしいのは、「意識があってはいけない」とした定義なのか、
基準なのか、解釈なのか。どれだかは、分かりませんが、素直になるほどとは思え
ないと思うのですが。

さてさて、終わりにしたいと言いつつ、何度も出てくるのでありますが(これが謹
慎中なのだろうか)、脳死のコーナーも例によって私の乱入で脳死の危機に頻して
おります。幸い、ひらひらさんが新しい血を3リットルくらい注入して下さりそう
ですが、ultraさんにもしばしばの出現を期待したいと思っております。

                クスコで演歌の つちねこ 

#0060 sci1223  8903082342

 話が、少しずれてきているようです。

 ULTRA7氏が最初に問題提起されたのは次の内容だったと思います。

  (1) 「死」とはなんなんだ?
    (2) 「脳死」って、「死」とおんなじなの?
    (3) 「脳死した人」は「死人」と同じなの?
    (4) 「臓器移植」を実行するときには誰に最終決定を下す権利があるのか?

私は、多少興味がありましたので、立花隆の「脳死」を買って読んでみました。
そこで感じたのは、「自分が脳死患者だったらやりきれないだろうなあ」という
ことです。素人考えですが、上の問題のうち、(1) について意見を述べたいと思
います。

 「死」の定義は時代によっていろいろ動くものだと思います。立花隆の「脳死」
にも書かれていますが、死人が生き返った話等は判定基準の甘さそのものだと思
います。但し、甘いといっても、技術レベルで仕方が無いことはありえます。し
かし、おおらかだった(?)昔はいいとしても、最近の技術の進歩を見ると、死
んだ人間でも、将来は助けられるのではないかという気がするのです。そんなこ
とばかり言っていても仕方が無いですが・・・。
 もう一つの思いは、誰かの故意によって「死んだことにさせられる」ことがあ
るのではないかということです。考えただけでも恐ろしいことですが、計画的殺
人そのものです。しかもそれに臓器移植が絡んでくると、俄然真実味を帯びてき
ます。ゴルゴ13なんか雇う必要はなくなってしまいますね。医者が依頼を受け、
「殺した」人間の臓器で依頼者の命を救う、なんてすぐに小説の題材になりそう
です。でも、考えてみると、これは脳死に限らず有り得ることですね。やっぱり、
お医者さんは信じるしかありません。

 結局、何を言いたいのかというと、
  (1) 人の「死」について簡単に結論を出すのは危険ではないか。
  (2) なんだかんだ言っても結局医者を信じるしかない。
  (3) 世の中のお医者さん方よ、われわれの信頼に答えるような行動をお願い
    しますよ。もうちょっと勉強してほしい。(除く、つちねこ)

            もっともっとたくさんのメンバーの参加を望んでいる
                            ひらひら でした

PS. あまり「新しい血」になっていない?
  失礼しました。

#0061 sci1598  8903122245

 ナカソネ流をきめこんでいましたが強制捜査が近いので釈明の記者会見……い
や、「脳死」と「脳死再論」を読み終えたので性懲りもなく書き込みます。しか
しまあ、本代のかかるネットだこと。

 まあ感想というか気付いたことを書きますと「脳死」を読み始めて、29頁で脱
線してしまったのです。『内的意識』は脳血流停止以降かなり長い時間保持され
ている云々とありまして、立花さんは注意深い書き方をしていますが、要するに
これは臨死体験のことですね。これについて私は非常に興味をもっているのです
が、話がまたまたややこしくなりそうなので、ここでは触れないでおきましょう。

 で、原点に帰ってウルトラさんの出された17の問題について、私の今(あく
までも現時点で)の考えを次の関連発言にアップします。これでまともな議論が
できるかな?

   あまり反省の色がみられないのでハンドルネームは代えない< 猫 男 >

#0062 sci1598  8903122252

1.死とは何か、定義できるものか
  肉体を持った人間にとっての究極の死とは、人体の内部環境と外部環境(自
    然環境)とがあらゆる点で同一になること(死んで土に帰る)、これはもう
    生き返ろうたって無理な話です。しかし、それを一般的な死の定義としたの
    では臓器移植は絶対にできないし(私は原則的に臓器移植反対ではない)、
    防腐処理も治療行為になってしまいます。
2.死には医学的、社会的などの種類があるのか
  究極の死に至る前の段階での死に種類はあると思います。医学的な死は、心
    臓死であったり脳死であったりします。これは医学の進歩により死の時点が
    変わりうるものだと思います。社会的な死は自分の意志で行動できなくなっ
    た状態がそれに当たるでしょうが、カレンさんの場合のように植物人間にな
    ったことにより社会的に「生きる」ような例もあります。「失踪宣告」は法
    律的な死で、本人が健康で一般人と変わらない生活をしていても「死んだ」
    ことになります。
3.脳死は人の死か、本当に死んでいるのか
  脳が壊死して自己融解を起こせば、人の死と認めないわけにはいかないです
    ね。
4.脳死から蘇生することはないのか、患者に意識はないのか
  自己融解を起こしてドロドロに溶けた脳が生き返る可能性はチョット…。意
    識はある人もいると思います(臨死体験の問題と関連します)。
5.脳死の判定方法、竹内基準で十分か
  万々が一にも、早すぎる死の宣告をするようなことがあってはなりません。
    少なくとも脳血流停止の確認をすることは必要でしょう。
6.「生き返らない」と「死んでいる」は同じか、臓器摘出していいのか
  少なくとも「意識が回復しない」「社会復帰できない」と、「死んでいる」
    とは同義語ではありません。
7.臓器摘出が許されるなら、それは「死んでいる」からなのか
  死体から勝手に臓器を摘出すると死体損壊罪です(医師には適用されないの
    かな)。単に「死んでいるから」許されるものではなく、法制化されないま
    でも社会的合意は必要でしょう。
8.臓器摘出が許されるなら「血液工場」として使ってもいいのか
  一度だけ臓器を与えるのと、継続して採られ続けるのとは違います(だから
    いやだ、と言うわけではないが)。死後の自分の肉体がどうなるのか、患者
    は自分の希望する扱いを受ける権利があると思います。
9.誰が許すのか、決定権をもっているのは医師か、役所か、国民か
  生前の患者自身の承諾(これからはタブー視せず、オープンに話し合ってい
    くことが必要になります)、患者が拒否したらあきらめる。患者本人の意思
    表示がなかった場合に限り、家族などの近親者の意向に従う。
10.人の死は法律で定めるべきものか
  社会的合意が成立した後でならかまわない(かな?)が、法律が先走ってし
    まうことは絶対にあってはならない。密室審議に強行採決なんて冗談じゃな
    い。
11.脳死とは全脳死か、脳幹死か、大脳死か
  脳全体の血流がストップする「全脳梗塞」を、脳死とするのが誤診の危険性
    が最も少ないと思います。
12.「脳死」後の医療は止めるべきか
  9.の場合と同様に患者とその身内の意向が尊重されるべきです。画一的に
    決めるのはよくない。
13.誰が同意すれば臓器摘出が許されるのか
  9.と同じ
14.脳死と移植は分けて議論すべきか
  分けるべきではあるが、両者は密接な関連がある問題だということを忘れて
    はならない。
15.提供者、医師、受容者が同意すれば第三者が介入できないのか
  三方が完全に対等な立場でありえない以上、なんらかの監視機関は必要。
16.移植を受ける順番は何を基準にすべきか
  提供された臓器との組織的適合性が一番、あとは必要とする度合いの強いほ
    う(重症患者)から。
17.このような医学的問題に素人が口をはさむべきか
  ここまで書いておいて「素人は黙って偉い人の決めたとおりに従えばいい」
    なんて言えませんよね。

                            「脳死」の丸うつしだったりして<  猫  男  >

#0063 sci2322  8903170356

生物学的な死
  もともと科学の世界、少なくとも生物学の世界で不連続な過程などと
言うような現象があるのでしょうか。生物の生と死を考えると生物の起源にまで
辿らざるを得なくなってしまいます。例えば、微生物はいつ生まれて何時死ぬ
のでしょう。細菌が分裂して2つになったとき、一体分裂する前の個体は死ん
だのでしょうか。科学は、生物の(人間も含めて)現象を追求することは
できるでしょう。同様に人間の生物学について研究している医学(医科学と
言いたいところだか)は、人間の生と死の過程についてより詳しくその現象を
説明できるかも知れません。しかし、生命現象と言うのは時間的に連続した
一つの過程であると思われます。生と同様、死も時間的に連続した一つの過程
です。

死の現象

 たった一つの細胞の生死について考えても、ある一瞬をもって不可逆的とできる
ようなpoint of no returnといったものは存在しないでしょう。例えある基準を設けて
point of no returnを決めたとしてもPoint of no returnは不変のものではないで
しょう。周囲の環境によっても変わってしまうし科学の技術が進歩すれば変わって
しまうでしょう。ましてや人間は多細胞生物ですし多くの臓器が有機的に機能して
いる複雑な生物です。簡単な話、現在の医療では末期癌が死に向か不可逆的なpoint
 of no returnを既に越しているとするなら、つい1世紀ほど前までは結核にかかる
ことは既にpoint of no returnだったでしょうし、虫垂炎(いわゆる盲腸)だって
抗生剤のなかった過去においてはpoint of no returnに近かったわけです。
 細胞がその生物としての機能を失う(生物の定義すら分かっていないかも知れな
いが)、この過程を死とするなら、形態的にはミトコンドリアという細胞の中のエネルギ
ー工場が膨化(膨らむ)して破壊(パンク)してしまうでしょうし、その後細胞膜
も形態を維持できなくなり細胞膜が破れてしまうといった経過を辿るでしょう。こ
うした一連の過程の何処を死とするか、不可逆的であると判断できるのかすらかな
り難しいでしょう。
 人間に話を戻すなら、死の経過というのはまず各臓器の機能が失われ、その臓器
の細胞すら代謝が営めなくなると細胞も破壊し自己融解して行くわけです。この過
程は各臓器によってかなり時間的なズレがあることは既にご指摘の通りです。脳と
言う組織(細胞)は数分の血流遮断でその機能を失い崩壊するでしょうし、逆に皮
膚などは1週間近く細胞は代謝を維持しつづけるでしょう。

生と死の定義

 医学(科学)は、その現象を詳しく説明することはできるでしょうが、どの点を
もって「死」と定義するかは、もはや「科学」ではないと言えるのではないでしょ
うか。

臓器としての脳不全

 腎臓がその機能を失った状態を「腎不全」と言います。肝臓が機能を失えば「肝
不全」です。
 (本当は「不全」と言う言葉はあまり適当でないのですが:英語ではfailureと
insufficiencyと使い分けられます。failureは全く機能を失ってしまった、いわ
ば「機能喪失」なのですが通常「機能不全」と訳されます。一方insufficiencyは
機能が残っているが充分でない状態で、これこそ「不全(全ならず)」と訳すべ
きなのでしょうが、通常「機能障害」と言ったり両方併せて「機能不全」といっ
ている)
 脳も生体の一つのまとまった機能を持つ臓器と考えるなら、脳の機能が喪失し
た状態は、「脳不全」とでも言うべきなのかも知れません。これを敢えて「脳死」
と言うのは、「脳の機能喪失は個体の死である」という暗黙の了解があるからで
しょう。「死」という言葉は何回も言うように「死の定義(何を以て死とするか)」
といった哲学的な(科学的ではない)意味あいが含まれた言葉で、「脳の機能喪失」
を「個体の死」と認めるの認めないのを討議するには甚だ不適当な言葉でしょう。
しかし、慣習から「脳の機能喪失」のことを「脳死」と言うことにしましょう。

「脳死」と「個体死」

 さて、「脳死」が「個体の死(個体あるいは個人としての価値とか尊厳が認めら
れない)」であるとする根拠は何なんでしょうか。それは、「脳死」がpoint of no
 returnなのではなく、脳が生きてる(機能している)ことにもっとも価値を認てい
るからなのではないでしょうか。
 「脳死」が全ての臓器のpoint of no returnとするには、ちょっと無理があるよ
うな気がします。よく「脳死になれば遅かれ早かれ心臓が止まり死ぬのだ」という
考えを聞きますが、現在のそして未来の医学の進歩からしてこの説明にはちよっと
無理があります。既に新聞などで見たこともあるでしょうが、「脳死」と判定され
てから「心停止」に至る時間と言うのは長い場合には1カ月以上ある症例も存在す
るのです。「だけど確実に心停止に至るではないか」と言われるかも知れませんが、
確実に心停止に至ると言うなら末期癌の患者や、それこそ末期の肝不全や心筋症の
患者は確実に心停止に至るのです。やはり「脳死」が「個体死」であるとする根拠は、
脳こそが意識の中枢であり意志の所在であり、脳が機能してこそその人は生きてい
ると認められるのだと言う考え方以外に説得力はないような気がするのですがどう
でしょうか。

心停止と死

 では逆に「心停止」は本当に全ての臓器の機能を不可逆的にするpoint of no 
returnなのでしょうか。確かに1世紀も前には誰一人として疑わなかったでしょう。
しかし、心臓が止まったことが即ち死なのなら、蘇生術などありえません。心臓は、
単なる血液を送り出すポンプに過ぎません。臓器や組織にとって大切なのは血流なの
です。実際、心臓の手術をするときには一時的に心臓を止めて人工心肺で組織の血流
を保ちながら行います。この人は手術の時一度死んだと言うでしょうか。ましてや、
近い将来完全置換型の人工心臓ができたら、その人は意識もあり社会活動もできるの
に心臓が動いていない(心臓がない)かも知れません。
 今やありとあらゆる臓器について人工臓器や臓器移植の研究が進められています。
一部は既に実用化されているのはご承知の通りです。将来、頭から下は全部人工臓器
か移植した他人の臓器なんてサイボーグが誕生しないとも限りません。そうなった時、
一体どうなったらその人が「死んだ」と判断されるのでしょうか。その人がその人
である由縁、人格として認められるものは「意志」や「意識」に求められるでしょう。
どうも皆さんの意見を見ていると「意識の有無」にだいぶこだわっているようですが。

意識とは

 ところが皆さんの考えている「意識がある」という意味と我々医師言っている
「意識がある」との間にはどうも隔たりがあるように思われます。我々が意識に
ついて判断するのは、感情・記憶・判断・認識などの非常に高次な精神活動ばか
りではありません。例えば、我々はよく「意識を失った」患者を診察するときに
意識レベルという言葉をよく使います。これは主に意識の深さを判断するのに用
います。我々は痛み刺激(皮膚をつねったり、胸を拳でグリグリ押したり)に対す
る反応を見ます。全く反応を示さないものから、払いのけようとする動作をする
こともあります。払いのける動作をするには、痛いところが何処であるのかを判
断して手をその場所に動かさなればならないわけで、これはかなり高度な精神活
動があると判断するわけです。(一般の方からして見るととても「意識がある」
ようには見えないかもしれませんが。)つまり「この患者は意識が多少ある」と
判断するわけです。覚醒(目を開けて)して会話ができ、自分の名前が言えれば
その患者はかなり意識が清明だと判断されるでしょう。このように「意識」には
かなりの幅があります。

植物状態と意識

 「植物状態の患者に意識があるかないか」と言われれば、多くの患者はきっと
「意識がある」でしょう。(痛み刺激くらいには反応することが多いし、目を開
けることもあるでしょう)また、患者の意識の程度は変化するでしょう。これを
回復と言うか言わないかは知りません。
 よく「回復するでしょうか」と聞かれたり、「植物状態から回復した」などと
いった使い方がされますが、一体「回復」というのはどのレベルまで回復すれば
回復したことになるのでしょうか。いわゆる植物状態の患者でも意識の程度が徐
々に良くなることはそんなに珍しいことではありません。特に頭部外傷による意
識障害の患者は最初の意識状態から考えると奇跡的と思えるほどの意識状態の改
善を見ることは少なくなく驚くには当たりません。
 ちょっと話がずれましたが、こうした意識・意志・人格といったものの所在は
何処なのかと言えばやはり脳(特に大脳)だと言えるでしょう。
例えば下半身を切断しないと助からない患者がいて、手術をするとき下半身にも
人格があり意志があるだろうからなどと言う人はいないでしょう。(文学的には
ありうるかもしれないけど)

「脳死」の診断

 だからこそ「脳」の生死が重要視されるのでしょう。
では「脳死」は、現在の医学で正確に診断できるでしょうか。「脳死」の定義を
「全脳(大脳及び脳幹)の不可逆的機能停止」とするならば、厳密には不可能で
しょう。何億もある全ての神経細胞の機能と不可逆性を証明する方法は今の所な
いと言えるでしょう。現在脳死の診断としては、
  1)神経学的に(つまり刺激に対する反射)脳幹の機能が喪失していること、
  2)大脳の機能が停止していること、
  3)脳の血流が途絶している(全脳梗塞)を証明することで行っています。
しかし、どれも間接的証明に過ぎないと言えるでしょう。例えばEEG(脳波)
は大脳の活動(細胞が生きていて電気活動がある)があるかを見ている(2)につ
いて)のですが、あくまで頭蓋骨の外から測定しているので一つ一つの神経細胞
が本当に活動していないかどうかは分からないわけです。3)の検査として脳血管
撮影があり、非常に説得力はあるかに見えますが、本当に脳の全ての血流が全く
ないことの証明は困難でしょう。
 かと言って、現在の医学で定義通りの「脳死」が判定できないかと言うと、恐
らく99.99%近く診断できるでしょう。
 じゃあ「絶対」ではないんですね、と言われるかも知れません。どうも日本人
はこの「絶対」と言う言葉が好きなようです。およそこの世の中に「絶対」など
と言うことがありうるでしょうか。科学に「絶対」を求めることは無意味ではな
いでしょうか。全ては確立でしか表現できないでしょうし、比較しかできないで
しょう。100%ということこそ「絶対」に有り得ないことでしょう。
現在の医学では、ある臓器(臓器に限らないが)の機能があることを証明するこ
とはそれほどむずかしくありませんが、ないことを証明するのはなかなか難しい
と言えるでしょう。
 もう一つ、医学が科学になり得ないのは、再現性を証明できないからです。そ
れは、医学が人間を対象としている以上決して同じ患者(症例)は有り得ないか
らです。
                                                      つづく

 長くなって申し訳ない  
   もう9年も救急医療をみてしまった  DANGAN