Wat00106 「科学と報道」2科学朝日2月号より転載 管理人

#0000 magam    8901211959

遅くなりましたが、科学朝日連載コラム「科学と報道」(2月号)を以下に掲載し
ます。
                                 管理人
さきほど基調発言に本文をアップしてしまいました。
入れ直します。

#0001 magam    8901212000

コラム「科学と報道」その2         朝日新聞出版局次長 柴田鉄治

水 俣 病

 水俣病をめぐる報道の足跡をたどると、二つの「痛恨事」が浮かび上がってく
る。一つは、水俣病のもつ重大な意味あいがなかなかわからず、長い間、ローカ
ルニュースにとどめてしまったこと、もう一点は、原因の確定を引き延ばそうと
いう動きを見破れず、結果的に、報道がそれにのせられてしまったことである。
 第一の点については、科学報道に限った問題ではなく、遠く離れた地方の出来
事がなかなか大ニュースになりにくい、という報道の基本的な「弱点」によると
ころが少なくない。だが、それにしても水俣病の場合は、度がすぎている。

 水俣病に関する報道の第一報は、1954年8月1日付の熊本日日新聞「猫 
てんかんで全滅」の記事だとされている(熊本40年史)。が、いわゆる水俣病
の「公的発見」は、その2年後の56年5月、水俣保健所に奇病患者の多発が報
告されたときとされており、同紙の5月16日付「水俣に子供の奇病−−同じ原
因かネコにも発生」のほうが実質的な第一報というべきだろう。

 一般に、ローカルニュースが全国ニュースになるのに全国紙の果たす役割が大
きいが、朝日新聞が「水俣地方(熊本)に奇病−−病原体わからず高い死亡率−
−熊大など究明に懸命」と九州全域に伝えたのは同年8月25日である。すでに
11人の死者が出ていたにもかかわらず、東京の紙面には載らなかった。
 最初は新種の伝染病かと思われた奇病も、熊本大学医学部の懸命の努力で、翌
57年の初めには、魚介類を媒体とした重金属中毒の線が浮かび上がってくる。
そして、マンガン、セレン、タリウムなどの名があがっては消え、59年7月、
ついに「有機水銀」にたどりつく。

 驚くのは、熊大医学部が原因物質を確認したという大ニュースが、朝日新聞の
特ダネだったにもかかわらず、東京の紙面には報じられていないことだ。判断ミ
スというほかない。
 東京の紙面に大きく報じられたのは、同年11月、漁民が新日本窒素(現チッ
ソ)水俣工場に押しかけ、警官72人が負傷するという騒ぎが起こってからであ
る。大ニュースになった最初が、公害というより、騒動の報道だったことも象徴
的である。

 「非水銀説」に振り回される

 こうした感度の鈍さに加え、報道はこのあと、有機水銀説に対して次々と繰り
出された「反論」に振り回される。
 最初の反論は、日本化学工業協会の理事がいいだした「爆薬説」。終戦時に海
中投棄された旧日本軍の爆弾が腐食し、溶け出したという説である。これは、県
の調査で海中投棄の事実そのものがなかったことがわかるが、それでも否定され
るまでの間は企業側にとって一定の役割を演じた。

 爆薬説と入れ替わるように登場するのが、東京工大、清浦雷作教授の「有毒ア
ミン説」だ。清浦教授は、有機水銀説が出た直後に、学生数人らと現地を訪れ、
海水などを採取して帰京するが、その際早くも、現地の記者団に「水銀ではない
ようだ」という談話を発表したという。現地の記者たちは「熊大は3年間も調査
したのに、5日間でよくわかるもんだ」と無視したようだが……。

 清浦教授の「反論」が、研究報告という形で通産省に提出されたのは、それか
ら3カ月後の59年11月11日である。水俣湾の水銀汚染はほかの海湾に比べ
それほどひどくないという論拠で、水銀説を否定した清浦説は、翌12日の朝刊
に「考えられぬ工業廃水、水俣病の原因、清浦教授が研究報告」といった見出し
で報じられる。
 実は、この記事の出た当日こそ、水俣病の原因について厚生省の食品衛生調査
会が結論を出す日だったのである。調査会の論議では、清浦説は海水調査にすぎ
ないと一蹴され、工場廃水による有機水銀が原因だとした水俣食中毒特別部会の
結論を答申した。しかし、報道の上では、非水銀説が前日に載った形であり、水
銀説が薄められたことは間違いない。

 同時に、調査会の結論で公的には決着がついたはずなのに、そのあと、厚生省
だけでなく、通産省、農林省、経済企画庁などが協力して原因究明にあたろうと
いうことになって、原因の確定までウヤムヤにされてしまう。この行政の「変
身」にも、反論の登場がひと役買ったようである。

 清浦説は、翌60年4月、その水俣病総合調査研究協議会の席上で、さらに詳
しく発表される。このときも事前に報道関係者に伝えられ、夕刊に「水俣病の水
銀説否定」と大きく載った。翌朝刊には、同協議会の結論として、今後、熊大の
水銀説と清浦説を並行して取り上げていくことになった、と報じられている。
 さらに、翌61年、今度は東邦大の戸木田菊次教授が、清浦説を支援する論文
を発表する。

 清浦説にせよ、戸木田説にせよ、学界の評価はともかく、原因の確定を遅らせ
ることには大きな役割を演じ、その後も「水俣病の原因は、学説まちまち」と報
道される状況がつづくのである。そして、なんと、水俣病の原因についての政府
見解が確定するのは、新潟県に第2水俣病が発見されたあとの、68年のことに
なる。発見から12年、有機水銀が突きとめられてからでも9年たっていた。

 逆手にとられた「報道の中立」

 なぜ、報道がこんなにも反論に引きずられてしまったのか。理由の一つは、報
道機関の「中立」指向だろう。ジャーナリストは紛争や対立があると、無意識の
うちにバランスをとろうとしてしまう性癖がある。とくに、素人では判断のつき
にくい科学の世界ともなれば、なおさらだ。

 水俣病の場合、これが逆手にとられたケースだったといえよう。いまでこそ、
企業側の意図は透けてみえるが、その時には科学論争のように見えたのも無理は
ない。
 企業側は、論争を一層効果的にするために、「地方対中央」の構図を利用し
た。熊本大学医学部に対して、中央の学者を対峙させ、しかも、現地ではなく中
央で記者発表する方法をとった。清浦教授が、東大医学部の強力をことさら強調
していたのも、それだろう。

 さらに、反論のための舞台も、報道がのりやすいように選ばれている。清浦教
授の反論は、通産省に提出されたり、経企庁主催の研究協議会で発表されたり、
中央官庁の権威をうまく使っている。また、学会の場も活用された。

 もちろん、報道が企業側にずっと甘かったわけではない。熊大医学部に「朝日
賞」を贈り、政府見解の出る2年も前に社会的評価を定着させたり、企業側がひ
た隠しにしていた、工場廃水でネコが発症した実験結果を明るみに出して、「企
業犯罪」を決定的にした朝日新聞のスクープなど、報道の活躍もめざましいもの
があった。 しかし、報道が初期の段階からもう少ししっかりしていたら、水俣
病に苦しむ人たちをあれほど増やしてしまうことも、新潟に第2水俣病を発生さ
せることもなかったのではないか、とあらためて思わざるをえない。



●水俣病の原因に関する年表
 1956年 5月…水俣保健所に奇病患者の多発が報告される
     8月…熊本大学医学部に水俣奇病研究班が設置
  57年 1月…研究班「原因は工業廃水の重金属の疑い」と中間発表
  59年 7月…研究班「原因物質は有機水銀と確認」と発表
     9月…日本化学工業協会理事が「爆薬説」
    10月…工場内の「ネコ400」実験で廃水から発症を確認(この事実が明る
       みに出るのは、68年8月)
    11月…東工大、清浦雷作教授が「非水銀説」の研究報告
    11月…厚生省食品調査会が「魚介類中の有機水銀」と答申
  60年 4月…清浦教授が「有毒アミン説」発表
  61年 4月…東邦大、戸木田菊次教授が「腐敗アミン説」発表
  65年 6月…新潟県有賀野川流域に「第2水俣病」を確認
  68年 9月…「水俣病は工場内で生成されたメチル水銀化合物が原因」と政府
       見解発表

#0002 sci2194  8901301347

 このようなアップに対して、もう10日たつのに、レスがない。
私は、この関連発言#1に付いて、非常に興味を持って読んだ。
このような記事が(マスメディアに)出てくることを今後とも期待したい。
しかしながら、私のキ−ボ−ド入力の能力では、ここまでしか打てない。

                         無名人

#0003 sci1223  8902050159

 えーと、この記事(連載コラム)の大ファンの、ひらひらです。
といっても、「新」科学朝日になってからの読者なのですが、この
記事は、マスコミのリーダーたる朝日新聞の懺悔のようですね。

>しかし、報道が初期の段階からもう少ししっかりしていたら、水俣
>病に苦しむ人たちをあれほど増やしてしまうことも、新潟に第2水
>俣病を発生させることもなかったのではないか、とあらためて思わ
>ざるをえない。

朝日新聞、頑張れ!!!