Wat00079 「科学と報道」科学朝日1月号より転載  管理人

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以下に科学朝日1月号の新シリーズ「科学と報道」の第1回を転載します。
今後も執筆者、編集者の掲載許可を得られたものの中から、サイエンスネット
にふさわしいものを選んで随時掲載して行きたいと思います。
                           管理人  馬上
 

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  [科学と報道]その1     (『科学朝日』1989年1月号より)
サリドマイド事件
                                                       柴田 鉄治
 1962(昭和37)年5月17日の朝日新聞夕刊最終版に、社会面4段抜
きの特ダネ記事が載った。
   「自主的に販売中止
       イソミンとプロバンM」
 これが、わが国でのサリドマイド事件の第一報だった。
 記事は、前年から西ドイツでサリドマイド系の睡眠薬が奇形児出産に影響が
あるのではないかと大騒ぎになっていること、わが国でも同種の睡眠薬の90
%を生産している大日本製薬会社が自主的に販売を中止することになったこと、
などを報じている。
 さらに、朝刊に続報が載る。西ドイツ駐在の特派員電で前年来の西独内の動
きを詳しく伝えると同時に、夕刊の「販売中止」は、実は「出荷一時中止」で
あり、大日本製薬社長の談話の形で、「今後も薬局で売られることは差し支え
ない」と記されている。
 この続報には、専門家(薬学者)による解説がついていて、「この睡眠薬は
かなり使用されているが、今日までわが国ではまったくそのような悪影響を見
ていない」「妊娠中の婦人で睡眠薬を使用された方もけっして心配することは
ない」とある。
 解説のなかに、こんな一節もあった。「早くからこの情報をつかんでいなが
ら、いたずらに世間をさわがせないよう慎重に調査を続け、今日の出荷中止措
置に当面して、はじめて記事とした新聞の報道関係者に敬意を表したい」
 その後の経緯を知っているいまの時点で、この第一報を読み返してみると、
なんとも歯がゆく感じるほど各方面に気配りをした記事である。事柄が事柄だ
けに、その衝撃を少しでも和らげようという配慮が随所ににじみ出ている。に
もかかわらず、この第一報は、大変な波紋を巻き起こした。
 やがて、わが国でも手の短いアザラシ状奇形児が大勢、産まれていたことが
明らかになる。あとでわかった数字だが、別表の通りで、西独で騒がれだした
61年以降に急増していたことがわかる。
 事態が明らかになるにつれ、厚生省と製薬会社に厳しい批判の矢が向けられ
た。「イソミン」の製造許可申請が、わずか1時間半の審査で通ってしまった
ことも、のちに明るみに出て指弾されるが、まず問題となったのは、西独に比
べて日本の対応の遅れである。
 ハンブルク大学のレンツ博士が、小児科医師会議で「サリドマイド原因説」
を発表したのが、61年11月中旬。西独の製薬会社は同月下旬には回収を始
め、英国、オランダ、スウェーデンなどもこれに続いた。これらの情報はすべ
て日本の製薬会社や厚生省にも届いていたのに、日本では出荷中止が6カ月後、
販売中止・回収にいたっては10カ月後である。
 もし各国と同じようにレンツ警告の段階で回収に踏み切っていれば、日本の
サリドマイド奇形児のうち半数は防げただろう、という推計がある。それに、
米国では、副作用に疑問を抱いた食品医薬品局(FDA)のケルシー女史が、
製薬会社や上司からの圧力にも屈せず製造許可を与えなかったことが高く評価
され、公務員最高勲章を授与されたというニュースが伝えられるにおよんで、
厚生省への風当たりはいっそう強まった。
 当時の厚生省の担当官は、のちにこう語っている。「西独からの情報を得て
薬事審議会の学者などにあたってみたが、それに、レンツ博士もあのころは無
名で、薬メーカー同士の商売合戦に利用されたのではという人もいて……」
  悔やまれる空白の半年間
 当然やるべき研究班の組織も国内での奇形児調査もしなかった厚生省・製薬
会社の責任は重大だが、それとは別に、レンツ警告からの「悔やまれる空白の
半年間」という点では、報道の責任もまぬがれない。もっとも当時は、朝日新
聞のスクープがなかったら日本の対応はさらに遅れていたとみられ、報道の責
任を問うような声はなかったが、あとから考えると、なぜもっと早く報道でき
なかったか、との思いが残る。西独の製薬会社が回収に踏み切ったきっかけが、
新聞や通信社の報道だったことを考えると、なおさらだ。
 当時の記録によると、レンツ博士の警告は、西独の新聞に報道されただけで
なく、米国の通信社によって全世界に打電されたという。当然、日本の報道機
関にも配信されていたはずだが、注目したことろが1社もなかったのは、残念
というほかない。 朝日新聞の場合、直後に出たPR版によると、第一報のき
っかけは、62年2月下旬に届いた読者からの投書だった。レンツ博士の説を
報じた米国の週刊誌『タイム』の記事が同封され、「よく調べて警告を」とあ
った。社会部が科学部に相談すると、科学部ではすでに知っていた。そこで、
社会部と科学部と外報部が協力することになり、西独の特派員に報告を求めた。
その報告はすぐ届いたが、報道のきっかけを待って結局、第日本製薬が厚生省
に報告にきた段階をとらえて、特ダネとした。
 投書が届いてから記事になるまで、ざっと三カ月。あとから考えると、この
間にも何人かのサリドマイド児が、と悔やまれる長さである。出荷中止まで待
たなくとも、外国での動きや報道があったのだから、すぐに報じられたはずだ、
という批判はあろう。
 しかし、あのころはまだ、さまざまな薬禍や食品公害を体験する前の時代で
ある。しかも、朝日新聞の社内では、当時、科学部の書いた、ある薬が効かな
いという記事に製薬会社から強烈な抗議がきて、薬の記事にはピリピリした空
気があったという。そこへ厚生省や専門学者のにぶい反応である。具体的なき
っかけを待って記事にした姿勢もわからないではない。
 とはいえ、結果として、第一報にあった「知っていても書かなかった新聞に
敬意」の記事とか、PR版の「慎重な取材3カ月」の見出しが、痛烈な皮肉に
なってしまったことは間違いない。
  「疑わしきは報ずる」原則へ
 「疑わしきは罰せず」という言葉がある。これは、科学報道にあてはまるの
ではないか、という説がある。とくに、薬や食品の場合、有害の疑いがかかれ
ば、その企業にとって死活問題だ。「疑わしい程度で報道されてはたまらない」
という主張である。
 一見、もっともな説であり、かつて、そういう考え方が有力だった時代もあ
った。しかし、その後、私たちは、さまざまな公害や薬禍事件を経験するなか
で、それは間違いではないか、やはり、「疑わしきは報ずる」べきではないか、
と考えるようになった。
 というのは、どんな公害でも薬禍でも、初めから確実な証拠がそろっている
ことはなく、最初は「疑わしい」から始まるものである。確実な裏付けがなけ
れば報じられないとなると、その間に時間がたち、被害は広がってしまう。も
ちろん、あやふやな疑いでは困るが、「疑わしい」ことに蓋然性があれば、報
道して社会に警鐘を鳴らすべきだ、という考え方である。
 「疑わしきは報ずる」という科学報道の基本原則−−それを私たちに強烈に
教えてくれた原点ともいうべき事例が、サリドマイド事件なのである。
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 表 : 日本における被害発生状況
ョ「「「「「ホ「「「「ホ「「「「ホ「「「「ホ「「「「ホ「「「「イ        
、1958年、1959、1960、1961、1962、1963、        
セ「「「「「゙「「「「゙「「「「゙「「「「゙「「「「゙「「「「ニ        
、   76人、  61、  97、 153、 337、 212、        
カ「「「「「ヨ「「「「ヨ「「「「ヨ「「「「ヨ「「「「ヨ「「「「コ        
  ●日本でサリドマイド系睡眠薬が売り出された1958年から6年
 間のアザラシ状奇形児の発生数(日本先天異常学会調べ)。62年
 の秋から暮れにかけてがピークだった。日本の回収は西独より
 10カ月遅れ、その間に急増してしまったことがわかる。
(筆者紹介 : 1959年朝日新聞社入社。社会部記者、論説委員、科学部長、
社会部長を経て現在朝日新聞出版局次長)
 

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「疑わしきは罰せず」とか「疑わしきは報ずる」などといった原則を設け,いつも
そのとおりに行動するという姿勢は,ちょっとナニではないでしょうか.教条主義
の安直さにおちいりかねません.
やはり理想としては,個々の問題ごとにその重大さを考え,報道するかせざるかを
決めるべきだと思います.そして,最後にどうしてもどうしても決定ができないの
であれば,過去の事例を参考にするのではなく,サイコロをふって決めてくれれば
いいのです.
金科玉条ってのは好きじゃない RUKAS