Pol00296 大都会・神経衰弱ギリギリのメトロポリス

#0000 sci6000  9210252302

A.D.19XX、都市は膨張し、人々は救いを求める。


#0001 sci6000  9210252302

 私はどうやら誘いやすい顔、もしくは性格をしているらしい。

 今年になって複数のsci関係者から自己開発セミナーの誘いを受けた。

 ある日突然、思いもよらぬ人からその手の勧誘の電話を受ける。聞けば最近自己
開発セミナーを受け、自分が変わったと言う。とても良いからあなたにもぜひ入っ
て欲しいと言う。断るとしつこく食い下がる。そのやり取りを繰り返した後、なん
とか引き下がっていただく。

 私は自己開発セミナーには興味はない。興味ある噂は多々耳に入ってくるが(例
えば密室での乱交に及ぶとか)。困るのは勧誘してきた相手がネットで知り合った
人である点だ。ネットの内外で今後もよいおつきあいをしていきたいと思っている
矢先、まさに寝耳に水である。これもオフで顔を知られすぎた弊害だろうか。

 我々の関係はとても脆弱であり、ささいなきっかけで綻びが生じる。街中で勧誘
されて断ってもそれは一過性のことで済むが、知り合いからの勧誘は返答に窮する
場合がある。特にネットの場合は、ネット外でのやり取りは水面下の事件であり、
ネット上ではそのいわば闇取引を反映させることなくつきあうことも可能な点が恐
ろしい。そしてもどかしい。

 かくしてオフライン恐怖症に陥りそうな私である。K.


#0002 sci6000  9210252303

 彼らは自己開発セミナーは宗教とは違うという。しかし私はそうは思わない。

 とりあえず勧誘のしつこさの点で(新興)宗教と同じである。やはり自分が加入
して良いと思った、または魅力を感じたからこそ他人にも勧めるのであり、それ故
にしつこくもなるのだろう。

 また、その集まりは同じ目的、または同じ成果を求めようとする同志の集まりで
ある。セミナーの内容を信じて自己開発に取り組むその姿は、一つのものを信仰し
ている信者にほかならない。

 本来、宗教なるものは勧誘して信者を募るものではなく、信仰の対象を信じる者
同志が自ら同じ場所に集まっていくものではないだろうか。だから自ら信仰したい
者のみが集まれば良いのであって、それ以外の人間に対して影響を与えないで欲し
いものだ。

 しかし、現在新興宗教や自己開発セミナーが流行っているという現実は、人々が
魂の救済を求めてやまないことの現れでもあろう。はからずもこのネットの最近の
傾向もそれを示している。これは一つのシナージィ効果と言えるかも知れない。負
のエネルギーを持った。

 膨張を続ける都市がそれを生み出す土壌である。K.コト KANON / H.O'Hara


#0003 sci3205  9211020231

ううん、この話に、あんまし深く入りたくないと思いつつ、書かずにはいられない
カンジ。

はたして K さん。 私が社交的積極性ゼロなのもまさにそのへんなのです。
オフの開催についてはお骨折りいただき、随分楽しい機会を設けていただいたのに
……何か役に立つことが言えそうにありません。

「セミナー」についてだけ言えば、人に薦めるのは「エンロールメント」という、システム
の一環でありまして、本人は薦めることで自らの段階を深めることになるわけです。
ですから、(私がそうできるかどうかは別として)勧誘を「好意」とは思わず、単に
セールスマンが車を薦めているのと同じと考えて対処してはいかがでしょうか(で、
車が気に入ったら買えばいいだけのハナシです)。

これに類することで私自身が困ったことはやはり宗教・政治がらみのことでした。
こういった問題は法でなく道徳でしか規範とならない点が問題なのでしょう。
なんとか、政治ボードらしく展開できないものかしらん。

        私は一元論者。セールスもセミナーも宗教も野球の好みチームも同じに
        扱う。そして肯定する。ただし、自分がそう考えることを拒否する態度
        に対しては消極的に、ココロの中でこっそりと、否定する。 普通青年


#0004 sci6000  9211032118

 社交的積極性ゼロでよく編集員やってられましたねぇ、って関係ないか(笑)。

 百年の恋もいっぺんで冷める、というほどのものでもありませんが、見知った人
からその手の勧誘を受けるというのは、自分がそれに反する感情を持っている場合、
ことさらいやな気分になってしまうことをまず否定できません。普通青年さんの様
に割り切って考えるのが大人の処世術かも知れませんが、何分私はまだ書生の気分
が抜けませんので(と、これも現代社会病の一つなんでしょうが)。

 自身、神経衰弱ギリギリの人間であることは認めたくありませんが、たとえばここ
1年のこのネット内のボードを越えた宗教連鎖的基調群発生の構造は、言い方悪い
かも知れないが少々救いようがない、と見受けられます。個人的には交流談話室某
基調者をめぐる事件(?)より、こちらの方がよほど始末が悪い、と思ってます。
何しろ終わりがないし、同じことの繰り返しであるし、ほとんど禅問答の世界です
ね(おぉ、普通氏の世界に近づいてきた^^;)。

 心強く生きることは都会ではもはや難しいものなのかな。人を信じることはかよ
うに難しい。K.


#0005 sci3205  9211060902

>4

人は自分が最も不得意とするものにハマった時、最大の能力を発揮するのだそう
です(ビートたけしの言葉より)。(笑)。

「救いようがない」は、実感として分かりませんが。このネットの議論は比較的
穏やかに進行していると思います(ニフの宗教の部屋……と、言ってももう半年
も停止のままだが……なんかもっと過激です)。

結局、ギリギリの所で、絶対的でなければ持てない信念を相対化することのできる
品性、というか、理性(もともとそこから生じたはずのものなのだから)を持ちあ
わせているかどうか、という点がモンダイなのではなかろうか。

             政治ボードから外れてますかね 普通青年


#0006 sci6000  9211071644

  宗教ネタそのものは別になんら問題はないでしょう。私が「救いようがない」と
見ているのはその裏に潜む、ある種ペシミスティックな部分です。それがあるから
またネットに救いを求めるかのように書き込む。しかしそこに救いはない、という
わけです(救いようがない、という視点はしかし・・・俺は神か?^^;)。

 現代のコミニュケーション不全を補完する、というのがこれからのネットに求め
られる一つの社会的機能でしょう。しかしそれも表社会とのバランスの問題で、偏
るのは好ましくない。まぁしかしネットに求めるものは一人一人違うから、という
いつもの結論に落ちついてしまう(笑)。

 傷をなめあうなんとやら。狐と踊れ。K.コト KANON / H.O'Hara


#0007 sci7548  9211082047

 どうも、はじめまして。「救いようのない」ことについて、おっしゃるとおりだと思
います。

 何か書いたからといって、それで現実の社会が変っていくわけでないし・・・・

                      !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 パソコン通信は人間関係が間接的、匿名的であるから、一見コミニュケーションが気
楽でもあり、普段の生活ではあまり接触しない人々と接触することにもなるのですよね
。一方で、その間接性、匿名性ゆえに、相手がどんな人だかわからなかったりすること
もあると思います。

 日常の生活では、わりと同じ考えの人たちが固まって生活しているわけですけれど、
通信の世界では、ネットによって、その性質上、そうした境界を簡単に踏越えているも
のが多々あり、喧嘩やトラブルも日常にみられない種類の深刻なものとなってしまうの
ですね。

 ネットの上では普段は会えないような違った価値観の人々が共存できるという理想は
錯覚であり幻想であり、結局、多かれ少なかれ、現実の人間関係とあまり変らないので
すね(最近やっと気がついたのですが)。

 パソコン通信における、特にオンラインのみのイージーなコミニュケーションをすべ
てだとすることは、結局、コミニュケーションとして本来なすべきことをしていないだ
けということなのでしょうか。

 現実の社会とバランスを欠くとはこういったことですよね?

 こうした点についての正しい理解がなかったために、最近まで、あちこちで本当に申訳ないことばかりしていた私は本当に反省しなければならないと思います。

                                 A・F


#0008 sci6000  9211091546

 A・Fさん、はじめまして。

 懺悔の基調は練習コーナーにありますので(笑)。

 私なども日々懺悔しないといけないんでしょうが、ネット上のコミニュケーショ
ンでは表社会よりも多少本音が出易く、かつ顔のないおつきあいをしているので、
その人間(?)関係はよりシビアなものになってしまう面があると思うのです。

 意見が一致している間は良い人間関係が保てても、ひとたびソリが合わなくなる
とソッポを向かれてしまうという、好きか嫌いかの感情も、顔が見えていれば表情
などをうかがうこともできるだろうし、コンタクトも取り易い。しかし、ネットで
は全てを書き込みだけで判断しなければならないので、文章にのめり込み、またわ
だかまりが蓄積され易い面があると考えます。

 こうしたことからネット上でのコミニュケーションを補完する意味でオフなどが
開かれるわけですが、ある程度おつきあいが進めば相手の人となりを知りたくなる
のは自然な感情です。だからこうした動きが出ることでバランスを取るわけです。
ただ、そこで気をつけなければならないのは、一度顔を合わせた以上、そこでは表
社会での属性(肩書き等)が伴うということ。顔を合わせてネットに立ち帰った時、
その属性を意識するかしないかというのが一つのポイントです。

 結局ネットはネット、表社会は表社会と割り切って、それぞれの場で円滑なコミ
ニュケーションを取れることがバランスを保つということだと考えます。理想論を
言うようですが。K.コト KANON / H.O'Hara


#0009 sci6000  9211091547

 で、表社会で円滑なコミニュケーションが出来ていないから、ネットにのめり込
んでしまう、という一つの図式が現状のこのネットで見受けられる面がある、と個
人的には思うわけでして、それを「救いようがない」と表現している私です。

 人がひしめき合うほどにコミニュケーション不全が顕著になってしまうのが現代
社会、大都市圏。旅の空でひしひしと実感する次第です。K.


#0010 sci3205  9211141129

ちなみに、私は、パソ通のコミュニケーションを現実のコミュニケーションとは

全く異質のものだと考えています。

つまり、いわゆる身振り等を含んだ「普通」のコミュニケーションは、この「文字だけ「
(あ、カッコが逆だ)の世界とは補完の関係ではなく別ものだと思うわけです。

ですから、オフで顔を合わせれば、そこから新しい関係ができるのであり、タマタマ
その相手のプロフィールや意見を、雑誌かなんかで読んだことがある、というカン
ジです。そして、オンラインに戻ると、できるだけ以前通り「文字だけ」世界に戻る
ようにしています。

問題は、あくまでこれは「私の考え」であり、全くちがう人もいるわけで、そういう
「考え」が錯綜してできている(いわゆる「常識」が日常ほどに成熟していない)のが今
のネットの状況ではないでしょうか。

                  まあそんな割り切ってできるものでもないんですが
                  パソ通と社会状況としてのコミュニケーションの不足
                  の関係はまだよく理解できん気がしてます 普通青年


#0011 sci6000  9211211722

 「錯綜」が転じて「暗闘」となる。そういう危険性をはらんでいるネットワーク
でのコミニュケーション。今、そこに必要なのは欧米社会では生活の基本とされる
他人への思いやりでしょう。ちなみに日本人が生活の基本とするのは個人の生活の
安泰だそうで、それが正直に反映されるのがネットでの個人主義、という気がしま
す。

 惚れた女に入れあげればしつこくなるのも当然で、振られればそこで潔く引き下
がる。そういう単純な割り切りができれば何も問題ありません。たとえコミニュケ
ーションの基盤をどこに置こうとも。しかし人の心理はそう単純なものではない。
だから他者への思いやりが必要となる。ただその思いやりの仕方は人によって違う
から問題が複雑になる。こうして堂々巡りを続けるのです(笑)。

 ウーン、ネット論を展開するつもりじゃなかったこの基調、こういう方向に展開され
てしまうのは単に基調者の趣味の反映かな?(^^;)。K.コト KANON / H.O'Hara