Fre00719 自然を記述する数学 #0000 sci5898 9008110002 というわけで、基調552から分家(してきました) この基調の主旨は、基調552の関連202でNori(SCI4920)さんが述べています ので以下に再録します。 ------------------------------------------------------------------------------ 私としては,数理科学である物理学を考えるときに,「なぜ自然を記述するの に数学を使うのか/使えるのか」という疑問が発せられたならばどうすれば明 快に答えられるか,ということに大変興味があります。 ------------------------------------------------------------------------------ ということでした。 皆さんよろしく 下総ヒグマ #0001 sci5898 9008110002 というわけで、基調を開いた手前、意見を述べさせていただきます。 といっても、私は化学(物理化学)に籍を置く学生でして、数学は道具として使ってい るだけです。 で、しょうがないから、以下に自然を現わしている数学の典型的な例(と思っている) をあげてみます。 1.微分と力学 NEWTONの力学が、それ以前の学説と大きく違っているのは、「微分」と 「実験」が含まれているからだ、というのを本で読んだことがあります。 確かに、速度の微分商が加速度になるというのは、定性的にはよくわかります。 でも、ここからさき、議論が出来ません………(単に力不足(;_;)) 2.結晶構造・分子構造と群論 これは、私が数学と物理の関係の中でいちばん美しい(変かな)と思ったものです。 自然界の持つ対照性をこんなに見事に現わしているのですから。 3.フーリエ解析と分光学 これは、本当に道具として使っています。光の干渉を利用したFT〜という分光機 の恩恵に預かっているもので。 あーしょっぱなから基調と関係なくなってしまうー 今度ゆっくり考えてアップします。 皆さんも、意見よろしく! 下総ヒグマ #0002 sci3021 9008120123 実に8年ぶりに科学朝日を買いました(でも、木元さんは大魔人化しているから 頭なぜなぜしてもらえない・・・シクシク)。 で、数学のこと色々載ってます。あまりこの基調とは関係ないかも知れないけど、 ゲーデルとかポアンカレがちらりと述べられています。 なお、私が実験で使った赤外分光装置は、高速フーリエ変換(FFT)でデータ 解析してましたよ。 D.D.C. #0003 sci5790 9008120130 物理学的でなくて、大変申し訳ないんですが、 とっても興味のある題材なので、 ■なぜ自然を記述するのに数学を使うのか よく御存知の仮説演繹法では、 まず帰納し、そして体系化し仮説を定立する、 その演繹体系の構築に数学的手法が使われる。 さらに数学的手法で個別事象を予測し実験し、その理論体系を実証していく。 こうした作業を、認識という側面から見ていくと。 まず、行われる全ての観測は、 あるがままの世界で全てを内包しつつ存在する事象を、観測主体の認識体系が、 特定の事象として認識する(ある意味を疎外し対象化する)と考えられる。 つまり、 全人的に存在する人間が、 例えば、その大きな構成要素である感情からもはなれて、 あるがままに存在する事象を、 ある水準(カテゴリー)を設定し、抽象化し認識していく。 (=ある認識水準で、対象化する) このようにして、観測という外界への働きかけを行い。 さらにそういった、多くの事象を、 自ら設定したカテゴリーを逸脱することなく (逸脱すると認識した事象の意味が変わってしまう) さらに意味づけ、加工し、関連づけ、論理体系を構築していかなくてはならない。 ここで、 数学的手法によれば、 〔1〕その事象の持つ意味が抽象化されるため、対象化する事象の意味の 水準や位相、事象間の関係性を正しく把握しやすい。 〔2〕整合性のとれた理論体系を構築するために、 演繹体系である、数学の論理構成を活用できる。 以上、数学的手法の道具性の面から、なぜ自然を記述するのに数学を使うのか を考察してみました。 ■なぜ自然を記述するのに数学を使えるのか まず、「自然科学」を精神活動という側面から考察すると、 個的水準からはなれ、共同的な水準で、抽象化された共同的な精神を 考察、再構築し体系化していく作業であると考えられる。 言い変えれば、 自然の記述とは、人間の物質世界に対する認識体系の記述としてとらえられる。 さらに、 数学のような閉じた論理体系は、アプリオリに存在するのではなく、 逆に人間の共同的な精神世界を思考モデル化し、 その中に存在する論理性を抽出したものであると考えられる。 このように、認識という側面からは、 数学が、自然の記述、つまり人間の物質世界に対する認識体系の記述 に大きな意味を持つことは、予想されます。 ※「共同的な精神活動」を根底において規定しているものが、言語体系であり、 そして数学は、その記号的表現であるとする考え方もあります。 **これじゃほとんどエッセイかな。** beem です。 #0004 sci5898 9008122249 まだ、ちゃんとした意見がないのですが、以下に「自然を記述」できていない(と 思われる)例をあげます。 <<中心力n体問題>> n個の質点系において……… (1)n=1の場合 NEWTONの運動方程式(F=ma)で完全に記述できます。 (2)n=2の場合 換算質量と相対座標を用いることによって、やはり完全に記述できます。 (3)n>2の場合 記述できない! 確かに各々の質点に対して、独立に運動方程式を立てることはできますが、近似を 用いない限り解くことはできません。 実は、これはかなりまえから疑問だったことですが、なぜ3体問題は解けないので しょう?本で読んだ説明では、数学的に証明されているそうですが……。それに、確か に(2)は2体問題を1体問題にすることによって記述しています。 そのほかにも、統計力学などは、かなりこの問題の核心をつく分野だと思うのですが、 まだまだ勉強不足です。今週中にはアップしたいと思いますので宜しく。 下総ヒグマ PS.コンピュータネットワークで、うまく数式を現わす方法はありませんか? ベクトルとか、ルートとか 標準的な記述方法を作りませんか? 大変な作業でしょうけれど……… #0005 sci5109 9008130244 最近忙しいので、あまり書き込み出来ないと思いますが、 気がついたことを一言だけ申し上げます。 >(3)n>2の場合 > 記述できない! > 確かに各々の質点に対して、独立に運動方程式を立てることはできますが、近似を >用いない限り解くことはできません。 「運動方程式を立てることはできる」のであれば、それで、3体問題を数学的に 記述したことになるでしょう。物理法則というのは数学と自然の接点ですから。 ただ、そうして出来た運動方程式(微分方程式)の一般解を求めることは 一般に出来ません。(方程式の一般解が明示できるかどうかは純粋に数学の問題) 言いたいのは、「自然を記述する」ということと、「その方程式の一般解が 求められる」ことは別問題であるということです。 また、当然ですが、「方程式の一般解がこれ、って表せるかどうか」と言うことと 「その方程式に解が存在するかどうか」も別問題です。 一見揚げ足を取っているようで申し訳ないのですが、基調にあるようなことを 話題にするのであれば、その辺を厳密にしていただかないと困るので、 敢えて書きました。 byζ #0006 sci4385 9008140859 単純なんですが、私は、こう思います 「数学」っていうのは、「論理」を「記号」で表した体系である、と で、「論理」を「言葉」で表したのが、「論理学」 ・・ 自然界の森羅万象を「数学」という言語で表現したのが、「物理学」で、 (Noriさんの言を借りるなら、「数理科学である物理学」ですか) ・・ 「論理学」という言語で表現したのが「哲学」と呼ばれるものと思います ま、哲学の範囲はもっと、広いようですが・・・ だから 「質量に力を作用させると、加速度を生じる」という「論理学表現」と 「F=ma」という「数学表現」は、同値なんです (あんまり、使いたくない例なんですが(^_^;) で、どちらも、自然現象を(ある意味で)記述しているんですよね 正確を期すなら、「加速度は力に比例し、質量に反比例する」とか、 「1(ニュートン)=1(キログラム)×1(メートル毎秒)」とか、補足 すべき事柄は、いくつかあるでしょうけれども 「物理を数学で記述する」とか言うと、なんか、解説を必要とするような気 がしてきますが、元々、我々は、自然現象を「言葉」あるいは、「記号」で 表現して認識しているんですよね 「自然を記述するのに数学を使う」のと同じレベルで「自然を記述するのに 言葉を使う」わけで、 言ってみれば、「自然を記述するのに日本語を使う」、「自然を記述するの に英語を使う」と意味的には大差ないと、感じる次第です、ハイ 若干、妥当でない表現があるかもしれませんが、それは私の表現力の無さ、 から来るもので、その辺を察して、行間を読んで頂けると幸いです 文章表現法の講師から 「あんたの文章を読んでいると頭が痛くなる」 と、お墨付きをもらった 神山君 #0007 sci5898 9008150003 >ζさん 指摘ありがとうございます。 反論できません。おっしゃるような議論をはじめたのですから。 このこと(3体問題)は別の機会に、基調で質問します。 失礼しました。 下総ヒグマ #0008 sci5472 9008190117 神山さんへ >「数学」っていうのは、「論理」を「記号」で表した体系である、と >で、「論理」を「言葉」で表したのが、「論理学」 と言っておられますが、「論理学」の中に「記号論理学」という記号を使って論理学を扱う分野があります。 ちょっと見ただけでは「数学」の延長みたいなのですが、専門家に言わせると「数学」ではなく「論理学」なのだそうです。 ただ、「記号論理学」では「量」を扱えないので、「量」を扱う論理学が「数学」なのではないかと、個人的には思っています。 (この議論が進む中でこの意見は変わることがあるかもしれないが) 数学科出身 一般教養で記号論理学をやった 克ちゃん PS ζさんへ 本家(?)の中で「0元はa×0=0として定義される」と言っていますが(ちょ っと表現が違うかな)、0元の定義は「加法の単位元」として定義されます。 a×0=0はあくまでも定理です。 (基調からずれたPSですみません) #0009 sci5109 9008190641 克ちゃんさんへ 御指摘のとおり、この表現はまずいです。 >ゼロ元はそういう物だと定義されている。 「m×0=0であることが証明される」と訂正させてください。 ごめんなさい。(「そういう」等という曖昧な表現もまずかった) 実はこの様な表現を書いてしまったのにはいきさつがあるのですが、 いまさらそんな言い訳はしないことにします。 byζ #0010 sci5472 9008191223 ζさんへ いえいえ、ちょっと気になっただけなので。 RESどうもすみませんでした。 克ちゃん #0011 sci4385 9008290911 >克ちゃん 私は、教養で「記号論理学」を少し齧っただけなので、あんまり正確なことは 言えないんですが、私の「感じ」を少し、話してみます 「論理」という、あるモノが存在したとします そして、「言葉」を覚えた人間が、「言葉による思考」を「道具」として使い こなしていくと、具象的であった「言葉」や「思考」が、より抽象的なものに 進化していきます そうして進化した「言葉」や「思考」を使って、人類は「論理」を「論理学」 として、顕すことが、できるようになりました さらに「論理学」に則って抽象化を進めてきた人類は、「記号」を道具に「論 理」を顕せることに気がつきました だから、発展史的に観ると、「記号論理学」は、「論理学」の派生分野なのか もしれませんが、実は、一つの実体を別の面から眺めた姿に他ならないと思う のです そして、「記号論理学」が、量を扱えないのは、記号論理学の採用したのが、 二値論理だったからでは、ないでしょうか? 言語による思考を習慣付けられた人達に、複雑な論理をそのまま記号化するの が、至難の技と思え、最も簡単な場合、つまり、真と偽だけの二値の記号を採 用することで、当面の作業を進めたのでは? 数学は、最初から、自然現象を記述することを目的に作られたので、当然に多 値論理です そして、人が具体的な「言葉」を使って、原始的な思考を行って、やがて抽象 的な思考に発展させたように、具体的な「数字」を使って原始的な計算等を行 っていた人が、やがて、より抽象的な「記号」によって現在の数学に発展させ てきたのでは、ないでしょうか どうも、論旨が見えてこないんですが、「数学」と「(記号)論理学」を厳密 に区別したがるのは、現世のしがらみに身動きがとれない、学者先生の打算的 行為ではないか、と考えた次第です、ハイ >克ちゃん、ζさん 「m×0=0であることを証明」して、いいのでしょうか? 数論を学んでいないので、疑問として提示させて頂きますが、私の理解として は、積演算は、0を除いた数の集合において、完全に閉じていますよね で、自然数の集合を除く数の集合では、0が含まれているから、積演算の定義 空間に0を導入するに当たり、0による乗算の結果を0と定めた(定義した) のでは、ないでしょうか? あれ?そうすると、Noriさんの証明は、いったい何だったんだ?(^_^;) 困ったな おーい、わけがわかんないぞう(^_^;) 「原論」の「定義」とか「要請」(で良かったんでしたっけ?、昔、一度だけ 読んだきりなので、きちんと用語を覚えていない^_^;)に相当する部分は、数 論では、どうなっているんですか? やっぱり、私はお邪魔虫(^_^;) #0012 sci5472 9008291527 m×0=0の証明について 数論の研究の上で、「群論」「体論」という物があります。 ある集合とその上で定義された演算について研究するのですが、概論は 次のような物です。 (Mは1つの集合でa,b,cはMの元と考えて下さい) T 半群 Mの上に1つの演算「×」が定義され次の性質を持つ。 @a×bはMの元 A(a×b)×c=a×(b×c) U 群 Mの上に1つの演算「×」が定義され次の性質を持つ。 @Mと×は半群 Aある特殊な元eが存在して、任意のaに対して、a×e=a B任意の元aに対してa×x=eとなるxが必ず存在する。 V 可換群 Mの上に1つの演算「×」が定義され次の性質を持つ。 @Mと×は群 Aa×b=b×a W 環 Mの上に2つの演算「+」と「×」が定義され次の性質を持つ。 @Mと+は可換群 AMと×は半群 Ba×(b+c)=a×b+a×c (b+c)×a=b×a+c×a X 可換環 環に次の性質を加えた物 @a×b=b×a Y 単位元を持つ環(これを単に環と呼ぶこともある) 環に次の性質を加える。 @a×1=1×a=aなる1が存在する。 (注意)「+」は当然群だから、a+e=e+a=aなるeが存在する。 このeを0と書く。 Z 整域 2つ以上の元を持つ環で次の性質をもつ物。 @「0」を除いた部分集合が演算「×」に対して半群 [ 斜体 2つ以上の元を持つ環で次の性質をもつ物。 @「0」を除いた部分集合が演算「×」に対して群 \ 体 斜体でかつ演算「×」に交換法則の成り立つもの 当然私たちが使っている「数」は「体」になっています。 加法の単位元(群の定義でAに出てくるeのこと)は「0」で、乗法の 単位元は「1」です。 また「体」である体系は「環」です。 ところがなんと「環」の部分で、ある体系が「環」であればa×0=0 になってしまうことが証明できるのです。 だから「0を掛けると0になる」と言うのは「体」をなす体系の必然の結果なのです。 この意味でa×0=0は定理と言った訳です。 克ちゃん #0013 sci4385 9008300908 >克ちゃん ご教示,ありがとうございました プリントアウトして,じっくりと勉強させていただきます とりあえず,お礼まで #0014 sci1089 9009180130 10番までの皆さんは、深遠な思索に基づく、高度に哲学的な説明をしておられます が(正直ほめ言葉のつもり)、どうも私は即物的なもので、そういう議論はできませ ん。というわけで、 自然現象を定量的に測定すると、たいていは、数値(もちろん単位つきですよ)が 得られます。ここでいう「記述する」は、この「数値と数値の間の関係を記述する」 ということだとすれば、数値と数値の関係を記述する方法、すなわち数学を使わざる を得ないということではないでしょうか? ですから、「数学を使う」ということは、「再現し得る定量的な測定」(実験方法 の確立)および「測定結果の客観的な記述」(単位系)と不可分の関係にあるのでは ないかと思います。 この意味で、1番で下総(ATOK6だと”シモフサ”で変換できました(^_^))ヒ グマさんが、NEWTON力学の特徴として「実験」を挙げておられるのは、興味深 く感じました。 こうして、実験結果をよく説明できる理論(式)が確立されると、実験できない現象 についても結果を予測することができたり、三体問題のように、式は立てられて実測結 果はあっても、数学的に解けないという現象があったりするのでしょうか? 失礼、三体問題が解けないというのは「一般解」のことであって、実測結果のように 「初期条件」があたえられれば、解ける(特殊解は求まる)のでしたっけ。 もう1つ、加速度が速度の時間微分である点ですが、 1)速度と加速度を独立に定義して、その関係を調べたら時間微分であることがわかっ たのか 2)最初から加速度を速度の時間微分として定義したのか、 2')力と速度変化の関係を調べたところ、速度の時間微分が力に比例することがわかっ たことから、速度の時間微分を加速度として定義したのか? 要するに、紙とエンピツでどこまで理論が構築されたのかは興味深い点です。 ちょっとタトしたかな? マサ #0015 sci5472 9009181158 単位付きの数値と言うのは「量」のことですね。 この量と量の間のことを論理的に扱うのが数学ですから、マサさんのおっしゃることは 正しいと思います。 ただ数学には、幾何学(空間を扱う)もあるから、量のことだけを扱っているわけでは ないです。 解析幾何では、空間の図形も式で表されます。 と言うことは、量と量との関係も、図形も式で表すことができる。 この2つの式の関係はどうなっているのでしょう? 後、加速度の定義も知りたいです。 現在の定義は、速度の時間的変化(すなわち時間で微分)ですが、歴史的にはどうなの かな? ここは書き込みが少ないのでちょっと残念な克ちゃん