Fre00628 【協力隊物語】

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                <<< 協力隊物語 はじめに >>>

 皆さん,お元気ですか?

 私は,埼玉県入間市に住む松井と申します。当局は5年ほど前まで青年海外協力
隊でケニアに2年ほど行っていました。業種は建築で,ケニアの中都市“エルドレ
ット”の市役所で小学校や市立診療所の設計をおもにしていました。
 黒の中の“黄一点”,泥棒に荷物ごと現金いっさいを盗まれ,ジャ−ジ−とTシ
ャツのみで震えながら任地まで帰ってきたこともありましたが,ケニアのサバンナ
に沈む真赤ででかい夕日と南十字星,キリマンジャロから見た朝日の美しさは今で
も忘れません。

 帰国時には中南米(ブラジル,ペル−,キュラソ−島,トリニダ−ドトバゴ,メ
キシコ)に寄ってきました。2年ほど前には,中国シルクロ−ド(西安,ウルムチ,
トルファン等)に行き,ケニアとはまた違ったあの人と広さと自然の偉大さに感動
しました。
 そこで,皆さんの興味のわくような話題をみつけて,シリ−ズで紹介していきた
いと思いますのでよろしく。

 以下にこれからの予定をあげておきます。

  【その1】  ケニア紹介
  【その2】  ケニア泥棒事情
  【その3】    ケニア砂漠ツ−リング
  【その4】    ケニア国内登山
  【その5】  キリマンジャロ登山
  【その6】  協力隊の詩
  【その7】  中南米(ペル−他)
  【その8】  中国シルクロ−ド
  【その9】  青年海外協力隊とは?
  【その10】 日本の常識は世界の非常識?

 皆さん,読んだ感想や質問などどんどんお寄せ下さい。

 では,次回からのメ−ルを楽しみに!

              入間のEMOより            1990.1

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             <<< 協力隊物語(1) ケニア紹介編 >>>

  皆さん,ケニアがどこにあるか知っていますか?
東アフリカにあり,ちょうど大陸がくびれたところです。隣接しているのはエチオ
ピア,ソマリア,ス−ダン,ウガンダ,タンザニアで,海を渡ればセ−シェル,マ
ダガスカルといろいろな国々と接しています。

 さて,協力隊で3ヶ月ほど語学訓練と現地適応(?)訓練を受けた私たちは,意
気揚々と言いたいところですが,緑色のパスポ−ト(公用)だけが頼りとは情けな
い。途中セ−シェルで乗り換え,ケニアの首都ナイロビに到着。黒一色の世界(?)
に私たち13人の隊員たち。まだ文化の香りのするナイロビは3日間だけで,私は
即ライオンやワニが待ちかまえている現地訓練の旅(?)に放り出されてれてしま
ったのです。

 一人一人別々の訓練先に向かって,まだ言葉もろくにしゃべれない(国語はスワ
ヒリ語+英語)私はボディ−ラングェッジにものをいわせてやっとの思いでプジョ
−(フランス製ライトバンの乗合高速タクシ−)に乗り,エンブへ。ここでマタツ
−(トラックの荷台を改造して人が乗れるようにした庶民の足,日本車が余り多い
ので【MA】ZUDA+TOYO【TA】+DA【TSU】Nが語源かな?)に乗
り換え,やっとのおもいで目的地へ。

 何しろ赤道の通っているケニアは,雨期(3〜6月頃,11〜12月頃)と乾期
のみで,標高の高いこのあたりでは山の天気と同じで,ス−っと雲がくるとまるで
バケツをひっくり返したようなどしゃぶりが1〜2時間程続き,さっと晴れるとい
うのが雨期の天気なので,ほとんどの人が傘を持っていない(買う金がないせいも
あるが)。

 私が3週間ほど過ごすことになったのはMbuguah家で,このあたりではま
あまあの家とのことだったが,床は土間で,天井なしの屋根裏まるみえのトタン屋
根,壁は木の枝を組んだものにそこらの土を入れ,仕上げは牛の糞か白っぽい土。
土砂降りになると悲惨で,人の声がまったく聞こえなくなる。もちろん電気・水道
なんてないので,ランプと雨水だけが頼り。乾期には遠々川から水を運んでくるこ
とになる。

 では,Mbuguah家のメンバ−を紹介しよう。

 父 : Isack(自称80才)
      40エ−カ−も土地を持っているムゼ−(尊敬の意をこめた老人の意味)
 母 : IrienとIsabellaの2人
 兄 : Evans(18才) 中3 
 妹 : Polly(17才) 中3 
使用人: Donald(15才)

 ちなみにEvansは25人兄弟で,おやじさんは5人もの妻を持っているとの
こと。このあたりの有力者の一人で,牛3頭,羊3頭,鶏約30羽あまりを所有し
ており,わざわざ私のために鶏を2羽つぶして,親戚一同を呼んでパ−ティ−を開
いてくれた(私が“さかな”になったのかな!)。

  女性のよく働くのに比べ,男たちの働かないこと。すぐに仲間と井戸端会議なら
ぬ“畑わき会議”が始まるのにはびっくり。部族同士の表面的な争いがなくなって
しまい,男の仕事が田舎ではあまりないという事か?大変な田舎の生活ではあるが,
なんとなく人間臭く私は好きでした(一生生活するにはたいへんなところですが)。

 ケニアの人口は約1,700万人で,大きく分けて47種族,小さく分けると百
数十種族といわれており,各々ル−ツが違い言葉や食べ物,生活習慣等が異なるた
め部族閥がかなり強く,ものすごい学歴社会でもあります。なにしろ学士号の出せ
る大学は3つのみで,建築に関していえばナイロビ大学卒業生40人のみとのこと。
大学を出たということは“超エリ−ト”へのパスポ−トを手にいれたことと同じな
のです。

 最後に現地訓練から帰る日にあのムゼ−が大切に育てていた鶏を1羽私にくれ,
「この鳥が朝鳴いたら一緒に起きて仕事をしなさい。この鳥が鳴くのを聞いたら,
あなたの両親や私たちに手紙を書くのを忘れないように」と言ってくれました。た
ったこれだけの事でしたが,私には大感激でした。

 まだまだ言いたりないことがたくさんありますが,今宵はこれぐらいにいたしと
うごさいます。

 次回は“泥棒事情”です。

                入間のEMOより    1990.1

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        <<< 協力隊物語2 ケニア泥棒事情 >>>        

 さて,無事現地訓練の終わった私は,なつかしの文化の臭いのするナイロビに戻
ってきました。ここでやっとうまいケ−キとコ−ヒ−にありつけると思ったのも束
の間各政府機関への挨拶まわりのあとランクルにて荷物を乗せて3〜4人づつぐら
いにわかれて各々の任地へ。任地の上司に紹介された後すぐ,皆の乗ったランクル
を見送るときの心細さといったらなんとも言いようがありませんでした。

 私たちのできることは”技術を教える”というような大上段に構えたものではな
く”卵をかえす”事であり,決して卵を選んだり,割ったりしてはいけない。相手
が自分の意志で割ってでてくるのをあくまでも助ける役目なのだ。その過程で、教
えたり,教えられたり,笑ったり,怒ったり,憎んだり,喜んだり,騙したり,騙
されたり,盗難にあったり,いろいろな経験があり大変勉強(本当はあほらしくな
ったことが何度あったことか?)になった。はじめはがむしゃらにに進んだやり方
を押しつけていたが,ようやく彼ら流のやり方で身につけた方が結局は彼らのため
になるのだと気がついた。早く白人の価値観より抜け出した”彼らの価値観”を見
つけてほしい。

 ところで,海外にでてやはり気をつけなければならないのは,病気と泥棒でしょ
う。病気では”マラリア””肝炎””赤痢”等,食べ物には十分気をつけなければ
なりません。本筋の泥棒の件ですが,私か私の身近の人にあったことを例にしたい
と思います。

【ケ−ス1】 セ−シェルかナイロビの国際空港
 セ−シェル諸島よりケニア航空に搭乗する時,重量チェックにて持込み荷物が大
きすぎるといわれ,手荷物を普通荷物といっしょに処理された。不注意でその中に
現金入りサイフ($200)を入れたままにしておいたので,サングラスと一緒に
盗まれた。

【ケ−ス2】 自宅
  エルドレットでの家は市営住宅の3LDKの1戸建て。敷地は25x40mで庭
付き,もう一人の土木の隊員と同居生活。泥棒にはもう2度も入られており今度は
3度目(たった1年の間に)。昼間の人のいないとき,裏の垣根の裂けているとこ
ろから侵入。ワイヤメッシュの入った窓の金物の弱いところをこじ開け、メインベ
ッドル−ムには鍵がかかっていたため入れなかった。たまたま近くの現場だったた
め,いつもの時間より早く帰ってきたら子供がなかで漁っていたので,急いでそい
つを捕まえたらなんととなりの家の子供だった。どうやら泥棒に小づかいをもらっ
てやったらしい。

 その後,たまたま別件で捕まった犯人が今回の指紋と一致したので調書を調べた
ところ書類がない。どうやら子供の将来を案じた親が後ろから手を回して調書を破
り捨てたようだった。

 後日談として,たまたま事件の経過を聞きに警察に行ったらその事件を担当した
奴が盗まれたはずのシャツを着ているのにはあきれかえって声もでなかった。

【ケ−ス3】 オフィス
 同じ職場で働いていた隊員の場合で,市役所の個室オフィスにおいてあったカバ
ンの中から財布ごと盗まれた。ちょっと便所にでた程度だったらしいが,ほかのケ
ニア人スタッフは便所に行くときでも机の鍵を掛けて行くそうだ。

  メッセンジャ−ボ−イが怪しいだとか,間違って入ってきた振りをしてきて中に
人がいないと盗んでいく奴がうろうろしているだとかいろいろ話は聞いたが,結局
わからずしまいだった。警察での事情聴取の時誰が怪しいと思うかと聞かれたので,
「もしかしたらメッセンジャ−ボ−イかもしれない」と言ったら,さっそく調べよ
うということになり,警官と一緒に彼を連れて家に行き,家宅捜査をしたのには驚
いた。結局市役所の名前入りのボ−ルペンが一本あっただけだったが,当人にとっ
たらたいへんなことだし,こんな事をして大丈夫なのかとしんぱいになったが,結
局この件はお倉入り。

 そのメッセンジャ−ボ−イもまた職場に戻り,私に国の畑に植える種が買えない
ので少々お金を貸してくれないかというので貸してやったら,ケニア人にはめずら
しく,ちゃんと期日までに返してくれた。以外と信頼できる奴だったようだ。

【ケ−ス4】  友人宅
  たまたま隊員4〜5人程度で旅行することがあったので,ホテル代をけちって知
人宅に泊まったのがえらい損をしてしまった。晩飯を食べ,ディスコにいって夜1
時ごろ帰って来ると,窓に15cm間隔で入っている鉄筋がこじ曲げられ4人分の
旅行中の荷物・現金・トラベラ−ズチェック・カメラ・衣類すべてもっていかれ,
被害総額は全部で60万近くになった。特にパスポ−トやIDカ−ドをとられた奴
がおり手続きが大変だった。

  そのころは盗難保険にも入っていなかったので取られ損。後でトラベラ−ズ・チ
ェックの払い戻し手続きをしようとしたら,本人が来ているにも関わらず盗難届と
いっしょでなければダメといわれ,手続きに手間取っている間におろされてしまっ
た。人より書類を信用するのかこのアホ銀行員!

【ケ−ス5】  学校
  ハランベ−という地域住民の人々が共同で金を出し合ってつくった中高校の理数
科教師に派遣されるケ−スが大変多くなった。近くといっても120Km程度は離
れていたが,ある隊員が勉強熱心な生徒何人かを学校の敷地内の自宅に招待し一緒
におしゃべりや勉強をみてやったりしていたのだが,「何かものがなくなるな−」
と思っていた。たまたま,ペンか何かを教室内で自慢している者がおりそれがその
隊員の物に大変似ていたので問いつめたが,「私の物だ」と主張したので持ち物検
査をしたところ,でるはでるは,こんな物も持っていたかなと思う物まででてきた。

 校長が生徒の給食費を着服して自分の土地を買ってしまった例もあるので生徒が
やるのもしょうがないか?

【ケ−ス6】 警官
 国境付近の交通警察官はたいへん人気がある。なにしろ拳銃を抜いてドンパチな
んてことはまったくないし,身入りがいい。まず国境側からくるマタツ−(覚えて
いますか?トラックを改造した庶民の足です)の適当なものを選び,自分の認識番
号の書いてある名札をポケットにしまう。おもむろに手を上げて停止命令をだし,
ちょっとドライバ−と話をした後,車を念入りにチェック,ときどき一言二言ドラ
イバ−に声をかける。その後,ドライバ−を道の脇に連れだし値段の交渉に入る。
これで自分のサラリ−の2〜3倍もの収入があるそうだ。こんなことが成り立つの
も,一時タンザニア側でトイレットペ−パ−や石鹸・料理用油等が供給薄となり,
隊員のタンザニア側への土産でさえこういったものが喜ばれるようになったことも
あったからだ。

 では、次回”砂漠ツ−リング”をお楽しみに!

                             入間のEMOより    1990.1

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       <<< 協力隊物語3 砂漠ツ−リング >>>

 本文にはいる前にいままで言い足りなかったことを一言。それは病気と食べ物
についてです。協力隊の講義の中にも病気の予防方法や薬のもちい方,緊急治療
の仕方等があり,出発時にはカバンいっぱいの薬をもっていくのですが,やはり
たよりになるのは自分の体力と予防策でしょう。

 私たちの間でよくかかる病気ベスト3は,
  1.マラリア(三日熱四日熱マラリア)
  2.肝炎
  3.赤痢
であり,病気といえば“マラリア”というほどで,ケニアではこれらと友達づきあ
いをした人も多くいました。

 マラリアについていえば,軽いが何回もぶり返し習慣的になる“三日熱四日熱”,
重くて高熱が続き後遺症でパ−になる可能性も高い“脳性”と2種類あり,“ハマ
ダラ蚊”という腹の部分が縞模様をしており,血を吸うとき尻を上げるのが特徴の
蚊が媒介するのです。私の住んでいたところは標高2,100mもあり,ケニアの
軽井沢などといっていたほどで,この憎たらしい蚊がほとんどいなかったので予防
薬を飲まなくても大丈夫だった。ただし,首都ナイロビやビクトリア湖畔のキスム
に行くときには注意しないといけない。

 食べ物については種族によってことなるが,“ギゼリ”といってメイズ(とうも
ろこしよりも白っぽく硬い)と豆を延々1時間30分ぐらい煮たものや,“ウガリ・
ナ・スクマウィキ”というメイズを粉にしたものに水をまぜてソバガキみたいにし
たものと,ほうれん草みたいな葉を油でちょっと炒めたあと水をいれてぐつぐつ煮
たもの。どちらも畑に植えておけば食べものにはこまらない。これがほぼ毎食とい
うのだからまいる。これを手づかみで食べることになるが,もちろん食事前には手
をきれいに洗うのは当り前。へんに気取って道具を使うより,ずっと気持ちよく食
べられる。ただ清掃夫のおっちゃんのサラリ−が月6〜7千円なのだからぜいたく
はできるはずもないのは当然か?

 さて,私がケニアで一番興奮したのはこのツ−リングだった。

 ケニアの上の方の砂漠地帯にぽっかりある“ツルカナ湖”という湖を発見してか
らいつか行ってやろうと思い,半年がかりで準備を始め,いざ出発したはいいが
100Kmぐらい走ったところでバイクのポイントの調整がうまくいかず,もう一
度戻って新品に取り替えて再度出発。ちなみに装備はというと,100ccラフロ
−ド用オ−トバイに荷台を溶接して作らせ,5リッタ−のポリタンク3個にガソリ
ン,1個に水,その他オイル,着替えや携帯用スト−ブにラ−メン,テント,シュ
ラフを積んで合計20Kg。ピキピキ(スワヒリ語でオ−トバイの意)2台で一路
ツルカナへ!

 一番困ったのは正確な情報がないので,“どこでガソリンが手にはいるのか”,
“泊まるところはあるのか”,“道は本当にオ−トバイで走れるのか”,“治安は
大丈夫なのか”等の不安なところはケニアで学んだ“ハクナマタタ(問題なしよ)”
精神で補うことにした。何しろ出発前の情報では“ガスステ−ションは800Km
以上ない”,“ランクルかトラックしか通れない”,“盗賊がでる”,“岩がごろ
ごろしており,オ−トバイではとても無理”と悲観的な情報ばかりだったのだから。

 いざ出発しようとしたら,隣の市長の秘書が「ツツカナ湖の東側なんて危ないか
らやめなさい。私たちの車で西側に行こう」と誘われたのを振り切って,愛車にま
たがってエルドレットを後にした。一日150Km平均として10日で1,500
Kmを目標とし,最初は道もいいこともあり300Km/日と好調だったが,途中
岩につっかかり膝を切ってしまったのを初めとし,50cm以上の砂の中にもぐり
込んでスピ−ドがぐんと落ちてしまい,河原の石のゴロゴロしたなかを走り,最後
には疲れはててパンクをしたのも気がつかないで夜の11時頃までハンドルを握っ
ていた。

 それでも目的のツルカナ湖畔のロッジング(小ホテル)にはまだ30Km以上も
あった。疲れていたためまったく修理する気力がわかず,そこの道の真ん中にひっ
くり返って星を1時間ぐらい見ていた。ここで野宿しようかとも思ったが,どんな
動物がいるかわからないし,やっとの思い出でパンクの修理を終え,ロッジに着い
たのは夜中の1時頃だった。呼べど叫べど門の中は真っ暗なまま。途方に暮れてい
たら,その地方の住民らしき者が現われて「建設中の宿があるが泊まらないか」と
いうのでちょっと不安だったが,なんと一泊80円でマットのないベットで休むこ
とができた。

 翌日はその現地人ロッジの管理人の出身であるナルモロ族の村に案内してもらい,
ワニ退治の見学をすることにした。湖の中にある島に山羊を放し飼いにしているの
だが,最近よくワニにやられるので退治するのだそうだ。船外機を付けた船に5人
ほど,船首には槍を構えた勇士が乗りたいへんカッコよかったが ,ワニに船外機
の音を聞かれてしまい逃げられてしまった。

 このツ−リングで困ったのは,道を聞いてもよくわからないこと。「村をでたら
右に行け」と言われても村をでたところがどこなのか,輪だちの跡もあちこちにあ
り,道などあってなきがごとし。一歩間違えばガソリンはギリギリいっぱいなので,
砂漠の真ん中でヒッチハイクなんてことになりかねない。太陽の方向と地図そして
カンだけがたより。

 ソマリのゲリラが出るからといわれて警察の護衛でコンバットを組んで出たはい
いが,警察の車は遅いダンプのことなどは面倒はみてくれないし,私たちの乗った
ダンプはすぐ遅れてしまい,挙げ句の果てにファンベルトが切れてしまった。しょ
うがないので載せてあったオ−トバイを降ろし,故障で止まっているはずのダンプ
のところまで往復30Kmの洗濯板のような道路を後ろにドライバ−を乗せていっ
た。やっと修理が終えて予定地に着いたのが夜の11時頃だった。ダンプの荷台に
いたためほこりで真っ白けであった。

 砂漠地帯にはほとんど人の住んでいるようなところは見えないのに,マサイ族ば
りのひとたちがサバンナや砂漠にひょっこり現われたのにはびっくりした。なにし
ろこのあたりは60Km〜80Km程度に1家程の雑貨屋兼ドライブイン(?)が
道ばたにあるだけなのだから。

 忘れられないのは,時速50Km程度で走っていたら横にシマウマが来て一緒に
数百メ−トル競争したことと,走っているすぐ前をダチョウが駈けていったこと,
ラクダ(家畜にしている)の群れにぶつかって通りすぎるまで待っていたこと。
そして,昼飯を食べようとして道からそれたら,たまたまそこに住んでいる部落の
人たち(ほとんど裸で槍を持っていた)が集まってきてドキッとしたが,ビスケッ
トをあげて事なきを得たことなど楽しくて大変な旅だった。

 全行程は1,800Km,首都ナイロビに到着した時には,オ−トバイの原型が
辛うじて残っているという程の無惨な格好だったし,乗っていた本人もほこりだら
け(誇りだらけ?)で,相棒のほうは脳性マラリアで入院してしまうし散々だった。
そのときは本当に辛かったが,「こんなことはもう二度とできないのかな」と思う
となんとなく寂しい気がするなあ〜。

次回は“ケニア国内登山”です。ご期待ください。

                入間のEMOより   1990.1

#0004 sci4708  9001122357

        <<< 協力隊物語4  ケニア国内登山 >>>      

  皆さん,感想はどうですか。文章がうまくないので経験したことの10分の1も
表現できず,ほんとうにやになってしまいます。

 さて,今までこのシリ−ズを連続して読んでくれているひとの中には、「協力隊
とはこんなものなの?」と疑問を抱く人も多いと思いますので,ちょっとPRを一
言。

 本来,協力隊はアメリカの平和部隊(ピ−スコ−)をモデルとして20年以上も
前に作られ,ピ−スコ−がほとんど英語の教師として派遣されたのに対し,青年海
外協力隊(JOCV)の場合は技術を重んじたものとなっており,現在では8,0
00人以上のOB,OGがいます。事務局は広尾にあり,国際協力事業団(JIC
A)の一部所です。

 最近,飛躍的に多くなった理数科教師を始めとして,看護婦や栄養士,農業指導
や建築・土木の設計及び監理,体育や武道の指導など150種以上になっています。
単身赴任が原則のため,既婚者は奥さんと子供をおいて2年間も行きっぱなしにな
りすが,最近ではなんと夫と子供を残して派遣された”つわもの”奥さんも現れま
した。

 「たががひとりくらいの力ではなにもできやしない」,「日本の先兵の尻拭いを
しているだけではないか」,「国税をむだに使っているだけだ」,「自己満足以外
の何物でもない」等々いろいろ言う人もいますが,日本では何十年たっても経験で
きないことが体験でき,会社の社員でいったのとはひと味もふた味も違った見方を
し,現地の人の中に入りその国の人たちと同じ立場で見る目ができたというのはや
はり協力隊ならではでしょう。大変教えられる事の多い体験でした。最新の技術よ
りもその土地や民族に合った技術,やり方,人が必要なのです。”人は城,人は石
垣”なのです。

 私の例でいえば,ケニアの4番目の都市であるエルドレット(人口8万人程度)
の市役所の建設課のア−キテクト(建築家)として派遣され,同時期に派遣された
土木隊員と2人で小学校や診療所,低所得者層用の住宅等の設計・監理をおもにや
っていました。市長が日本に2度も来ている親日派で,大の日本人ファンであるの
と同時に,大統領の出身地に近いため世界銀行の援助資金などもよく入り,大変恵
まれた仕事場でした。土木隊員の送別会のときわざわざ「Hさんありがとう。何々
と何々をしてくれた・・・」と小学生が歌って見送ってくれたのは感動ものでした。

 また,市長に「何かほしいものはないか」と聞かれた時、その隊員は「名前をく
ださい」といい,「私が携わった道路の一つに名前をつけさせてほしい」と答えた
のです。市長が「Mr.H ロ−ドか?」と聞いたところ,Hさんは「いいえ,こ
うべロ−ド」(神戸市役所からの休職できていた)と答えたが,「コウベはスワヒ
リ語ではカメだから良くない」ということになり,結局”TOKYO ROAD”
となったのでした。なんとエンジニア冥利につきる事でしょう!

 あくびをしている人もいると思いますので,この辺で本筋に戻るとしましょう。
ケニアにはケニア山,エルゴン山,変わったところではモロブス山なんていうのも
あります。そのなかでバイクで登れる山エルゴン山を紹介しましょう。

 私たち”ピキピキ恐力隊”は前の晩に麓の隊員宅に集まり,朝8時出発。ピキピ
キ(スワヒリ語でバイクの意)と轟音をたてて20台ものバイクが山道を登り始め
ると,周りの子供たちのはしゃぎようといったら大変なものです。こんなものはめ
ったにあるものじゃないとばかりに,子供たちが追っかけてきました。

 雨期のちょうど中休みの時期であったため,2mほどの道はまん中が大きくくび
れて水みちとなっており,ちょっとハンドルをとられたら最後,ケニア人以上に真
っ黒になってしまいます。これでも3,000m級の山なので頂上付近の山小屋に
近ずくと混合比が変わるためか,バイクにまったく力がなくなり最後は押して行く
ようなはめになってしまいました。

 やっとの思いで着いた山小屋も突風にやられたのか,屋根のトタンが半分以上め
くれあがり,扉は壊れてしまっており,雨にやられずに済んだのは好運でした。さ
っそく食事の用意。私は水汲み隊なのでポリタンクを持って川へ行くとなんと沢蟹
が。30匹ほど取ってくるといつのまにやらフライパンの上でいい臭いがし,最初
は本当に食えるのか心配していた連中もあまりの香ばしい臭いにつられて,手がの
びて数秒のうちになくなっていました。なんと香ばしかった事か。

 翌朝は6時に起き7時には出発,8時半に頂上下の湖畔に到着・休憩した後,先
発隊はル−ト捜しのため東から,もう一隊は西から,その情報より私たちは真中か
ら登り10時半頃には頂上を極めました。すぐ向こうに見えるのはウガンダで,こ
の辺りは密輸品や密入国者が行き来するようで,警備も厳しいとか?頂上で30分
ほど楽しんだ後湖畔に戻り昼飯,山小屋にもどったのは1時ごろでここで疲れを癒
し,いよいよ最大の難関の下りに挑戦。何しろ雨を吸ってすべりやすく,道はガタ
ガタで真中はくびれており、勾配がきついのでかなりのスピ−ドがでてかなり危な
いのです。それでも皆無事(内3名は女性でジムニ−にて参加)登頂に成功しまし
た。

  次回は”キリマンジャロ登山編”です。お楽しみに!

                    入間のEMOより       1990.1

#0005 sci4708  9001130003

      <<< 協力隊物語5 キリマンジャロ登山 >>>

 本題に入る前に一言。

 前回書き忘れたことをちょっと・・・。
わがエルドレット市は標高2,100m,ケニアの首都ナイロビは1,700〜
1,800mになります。MT.ELGONは4.321m,MT.KENYAは5,199m,そ
してMT.KILIMANJARO(タンザニア)は5,895mです。

 さて,ケニアといえばなんといっても,ナショナルパ−クとサファリラリ−でし
ょう。ナショナルパ−クは四国ほどもある広大なエリアを持ち,動物たちが移動す
る変わり目の時期にはものすごい砂けむりと地響きと共に腹に響くようなスケ−ル
の光景には圧倒されました。また,ナイロビ市の郊外にもこじんまりとしたところ
もあり,ここはどちらかといえば日本流サファリパ−クというところでしょう。
見所は朝早くと夕方頃で,日差しの強い日中は動物たちは木陰に入っていて,どこ
かのエコノミック・アニマルのようにやたらに動き回っても動物を見つけることは
できません。私たちはレンジャ−の隊員を雇っていそうな所を捜しまわりました。

 こんな動物が自然のまま見られます(当然ですね。むしろおりに入っているのは
こちらなのですから!)。

 ライオン  : 日中なので木陰に横になり,大きな口を開けて仰向けになり,
         足をだらりとさせ,なんとだらしないこと。
 カ  バ  : 行水の最中か,30頭ぐらい群れていて壮観だった。
 キリン   : 近くで見ると実にでかい。動く様子が実にユ−モラス。
 ゾ  ウ  : 無理やり子づれの象に近寄ろうとしたため,親象が怒ってこち
         らにむかってきてびっくりした。
 イボイノシシ: ほんとうに滑稽なかっこうをしているなあ。
 チ−タ−  : 今回は残念ながら見ることはできなかった。
 サ  イ    :             同     じ

 実はケニアではよくあることなのですが,ダブルブッキング(予約がダブる事)
していたため,車で行って一泊し夕方と朝の一番いい見頃の時を見ることができな
くなってしまった。結局,予定を変更してセスナで行って日帰りすることになりま
した。私の乗った機はムズング(白人の意)がパイロットで,たいへん運転がうま
く快適な時を過ごすことができましたが,もう1台の方のインド人パイロットはな
んとマニュアル片手にチェックしていて冷汗ものだったようです。「こんなところ
で死んではたまらん」と思っても後の祭り,パラシュ−トで降りたにしても下は何
もないサバンナだけ,肝を冷やした体験だったようです。

 もう一つのケニア名物“サファリラリ−”は国を挙げてのお祭騒ぎです。ちょう
ど乾期と雨期の間にあり,4WDの大出力車にとっては泥レ−スが有利で,ほこり
レ−スには小回りのきく中型のほうが有利。子どもの投げた小石でフロントガラス
を割られたり,牛と衝突したり,アクシデントの連続で技術以外にも運にもかなり
影響されるようです。私がいたときには,8年連続優勝を誇る“ニッサン”,今回
初参加でだいぶ力を入れている“トヨタ”,個人参加ながらいつもがんばってくれ
る“スバル”。金をふんだんに使い,ヘリコプタ−とサ−ビスカ−を縦横に利用す
ればファクトリ−チ−ムが勝つのは当然,私はいつも個人参加の人たちを応援して
いました。最近は“インテグラ−レ”が総ナメのようですね。

 なにしろ,あのアウディ−・クワトロは300馬力もあり,全開ではなんとリッ
タ−700mしか走らないというのですから,その音たるや1〜2Km先からでも
ものすごい轟音をたて大地を震わせるほどです。第三レグの後半ともなると,どの
車も満身創いであり,時間を競っているのは最初の5〜6台目までで,あとの車は
完走するだけでいいというのが明らかにわかるような走りで,ちょっと拍子抜けし
てしまいます。このラリ−の前後には急に事故が多くなり,よく道端にマタツ−(
庶民の足の改造乗合トラック)が転がっていましたっけ(なんと単純な連中が多い
事か!)。

 「一言にしてはずいぶん長いな。」と言う声が聞こえてきそうなので,本題のキ
リマンジャロ登山の話を始めましょう。

 キリマンジャロに登るにはまず“モシ”という町(タンザニアのコ−ヒ−集積地
でもある)に行き,麓のホテルで日程を決め,山小屋を予約してしまいます。ホテ
ルで人数が5〜10人程度集まると,その晩説明会を開きガイドとポ−タ−を雇っ
て出発です。私たちが選んだのは“MARANGU ル−ト”で,隊員4人とノル
ウェ−人3人の計7人のチ−ムでした。これに対して,ガイド1人,アシスタンド
ガイド2人,ポ−タ−11人の計21人という大パ−ティ−になってしまいました。
各々の荷物はポ−タ−に持たせていますので,私は現場用の編み上げ靴にデイバッ
ク,まるで秩父の山にハイキングに行くような気分でさっそうと歩いて行く横をタ
ンザニア人のポ−タ−(小学校高学年程度)がビ−チサンダルをペタペタさせて,
リュックを頭に載せて運んで行くのでした。

 すべて白人の“大名旅行”風にアレンジしてあり,私たちはゲ−ト(1,829
m)までは車で行き,それから3時間程度で一泊目のMANDARA HUT(2,
743m)に到着。ダイニング用の大きな山小屋(?)と宿泊用の山小屋にわかれ
ており,とても立派なものでした。いい風に吹かれてボ−としていたら「ティ−タ
イムだよ」という声,ミルクティ−にビスケットが用意されていた。夕食にはテ−
ブルクロスとナプキン付きでス−プから始まるディナ−にはびっくり,ここは本当
に“サ−ビスという言葉のかけらもない”タンザニアなのかと思ったほどでした。
なんとなく王様気分にひたった体験でした。

 2泊目のHOROMBO HUT(3,658m)も楽勝のペ−ス,ハイキング
気分で午後の1〜2時には着いてしまうのですから。ところが軽いのはここまでで,
3泊目のKIBO HUT(4,709m)まで来ると,いくら元気な私もちょっ
とバテぎみです。この日に備えて,エルドレット(標高2,100m)の高地で週
3回,2〜3Km程度マラソンをしてきたのですが,ここは空気が薄くなり頭の底
からジンジンうずくような気分にはまいりました。夜寝ていてもウトウトするだけ
でちっとも深い眠りにつけません。

  実は我々のチャレンジする2日前,タンザニア人のガイドが腐った雪ですべり落
ちて死亡,翌日もアメリカ人観光客がすべって足をけがしており,我々のガイドが
ビビッてしまい,「明日は無理だ」といいだした。「ここまで来てそれはない!」
結局,通常真夜中の2時頃出て行くところ,夜明け近い4時頃出発することになり,
御来光は頂上では見れませんでした。この最後の登りはかなりきつく,頂上付近の
わずか400mは,20mいってはハアハアいって休み,25mいっては休みの連
続で大変つらく,もうやめてしまおうかと何度も思ったほどでした。やっと頂上に
着いたときの喜びはもう最高でした。なんといってもこの Gilman’s
Pointは5,685m(本当の頂上はUhuru Peak 5,895m)。
下からぽっかり浮かんだキリマンジャロも最高ですが,頂上からみた火口の万年雪
の風景も格別でした。全行程4泊5日の快適な大名登山でした。

  ゲ−トより車でホテルまで帰ろうとし,押しがけして出ようとしたときビ−トル
(メ−タ−はとっくに一回りしている)の後ろの車輪がストンと一つはずれてしま
った。運転手しか乗っておらず山道に出る前だったので助かったが,これがみんな
乗り込んでこのガ−ドレ−ルのない山道を下っている途中にでもはずれたらと思う
とぞっとした。このあと部品を捜しまわってスクラップ場に行ったりしてたいへん
だったが,つくづくそのへんによく走っている車でよかった。そうでなければそこ
において帰らなければならなかったかもしれなかった。

 次回は“協力隊の詩”を紹介します。お楽しみに!

              入間のEMOより     1990.1

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         <<< 協力隊物語6 協力隊の詩  >>>       

今回はちょっと芸術的にトライしてみました。

 1983年2月に東アフリカを歴訪した際、皇太子殿下も賞賛した「赤い夕陽の
詩」を。

1)赤い夕陽が砂漠を染めて
    燃えて落ちるぜ 地平の彼方へ
  夢を求めてきたんだアフリカ
  俺は大好きさ この大地が

2)つらい時にはタスカを飲んで
  うれしい時には手紙を書いた
  友と肩組んで歌ったマライカ
  俺は大好きさ この歌が

3)2年の思い出 心に刻んで
  旅立つ朝のナイロビ空港
  さよなら ウワヘリ
  よびかうことばに
  別れ涙が頬を濡らす

 私もこんなかっこよかったかなと思いつつ、ちょっぴり本音の歌を・・・。

1)日本を離れて 今日まで
  行方定めぬ 俺たちは
  黒い顔見て しみじみ想う
  ここはアフリカ 海のはて 海のはて

2)友の便りの言うことにゃ
  あの子はお嫁にいったとさ
  写真ながめて しみじみ想う
  笑ってくれるな お月さん お月さん

3)俺たちしがない協力隊
  街の暮しにゃ縁がない
  どろくそまみれて しみじみ想う
  俺の恋人 この大地 この大地

4)夕日がつくった長い影
  一番星をみつけた
  すきっ腹かかえて しみじみ想う
  泣いてたまるか  明日がある
                      明日がある

 つくずく身にしみてしまいました。

最後に、あの武田鉄也も歌った「地球色の日焼け」を紹介しましょう。

何かを捜して 空を見つめたら
遥か 遠い地平線に雲がかけてゆく
一人だけでは かたちにならない夢
何もしなければ 空しく終わる青春
見知らぬ言葉で 優しさを語ろう
見知らぬ人達と 熱い汗流そう
そこに 地球色に
日焼けした 君がいる
そこに 地球色に
日焼けした きみがいる

鏡に向かって 自分映しても
時が過ぎれば いつの間にか心は眠る
出会い重ねて 暮しに息づく愛
心ぶつけあい 一つになれるときめき
あふれる若さを 太陽にやかれて
口ずさむ歌を 大地に注げば
そこに 地球色に
日焼けした 君がいる
そこに 地球色に
日焼けした 君がいる

あふれる若さを 太陽にやかれて
口ずさむ歌を 大地に注げば
そこに 地球色に
日焼けした 君がいる
そこに 地球色に
日焼けした  君がいる

 ほれぼれしてしまいますね?

では、次回“番外編の中南米”です。よろしく!

              入間のEMOより     1990.1

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      <<< 協力隊物語7(番外) 中南米編 >>>

 ケニアで2年間の任期を終えた私はいろいろな思い出を残しながら,出稼ぎの翼
“エチオピア航空”に乗って,ケニアを後にしたのでした。
 
  最初の予定では,世界一周コ−スとなる“日本→香港→スリランカ→セ−シェル
→ケニア→ブラジル→ペル−→チリ→イ−スタ−島→フィ−ジ−→ニュ−ジ−ラン
ド→日本”というル−トを選んだのですが,ナイロビの日本航空のオフィスに何度
かけあって予約の手続きをしてもチリ→イ−スタ−島間だけがとれず,しかたなく
“ブラジル→ペル−→キュラソ−島(カリブ海)→トリニダ−ド・トバゴ→メキシ
コ→日本”のル−トに変更しての出発となりました。

 さて,さっそうとナイロビ空港を発ち,エチオピア人の美人スチュア−デスを眺
めているともう西アフリカのナイジェリア・ラゴス空港に到着,手続きをしようと
すると長い行列,機内で入出国カ−ドを配ってくれなかったため,その行列に加わ
って延々30分も待ち記入して係官に見せると,フランスなまりの英語でパスポ−
トを見ながら「おまえはこっち」と別室の係官の所に連れて行かれました。

 「何かまずいことでもしたのかな?」と思っていると,ビザがないから入国でき
ないとのこと。私は事前に聞いていたのでケニアでビザをとろうとしたが,ブラジ
ルのビザをとるのに手間取ってしまい,ナイジェリアのビザはとっていなかった。
そこで私は,「トランジット(乗り換え)で24時間以内に出国してしまうのだか
ら必要ないはずだ。」と言ったのですが,「私が係官である。私が“YES”と言
わなければ入国できない。」の一点張り。途方に暮れた頃を見計らって向こうから,
「もう一度パスポ−トを見せてみろ。200ドルならOKだ。」なんと堂々のワイ
ロの要求です。パスポ−トの中に200ドルを入れて渡せと言っているらしい。
私はケニアを出るときに1ヶ月間の旅費として1200ドル程度しか持って出なか
ったため,こんな所で浪費するつもりはなく,ねばればねばるほど要求額は100,
50ドルと下げてきました。それでも私は“廊下の住人”になることに決めたので
す。

  どうやらみな私と同様迷った結果,ゲ−トを出ないで廊下の横に荷物と一緒にと
どまる事にしたらしい。一泊目から大変な旅となってしまいましたが,ここで一夜
を過ごし飛行機に乗るため荷物検査を受けていると,「所持金を出せ」とのこと。
申請している金額と30ドル程度違っているのに目をつけ,「真実と異なった申告
をしている。何かほかに隠しているものがあるのではないか?明日コ−ト(法廷)
へ来い。」こいつも役得組の一味らしい。飛行機の出る間際までねばったら,むこ
うがあきらめたのか「行け」というので,「もう二度とこんな所へくるもんか。」
とつぶやきながら,出国(出獄?)したのでした。

 さて,ブラジルではリオデジャネイロのコパカバ−ナ海岸のホテルで2泊し,強
烈な日光と青い空を満喫し,うまいものをたらふく食べ,ペル−に向かいました。

 ペル−の首都リマでは協力隊のゲストハウスに泊まり旅費を節約,さっそくマ−
ケットに出かけました。アホずらした観光客に見られたのか,後ろからキャッキャ
ッした声が聞こえるなと思ったら,カメラを吊っている皮ひもをナイフで切ってひ
ったくろうとしたのです。ひもに手をかけようとしたときに振り返ってこの野郎と
言おうとした,なんと女の子3人組でした。さっそくの歓迎ありがとう。

 さて,ペル−での名物料理といえば,
 *セビチェ:鮮魚の切身や貝類にレモン汁をたらし,トウガラシ・タマネギ・レ
       などであえたもの
 *アンティクチョ:牛の心臓の切身を串にさし,トウガラシのソ−スにつけて炭
       火で焼いたもの
 *ピスコサワ−:地酒ピスコに卵白・砂糖・レモン汁などを入れ,カクテルにし
       たもの
 *野菜ス−プ:露店で朝一杯いくらで売っていた安くて手ごろな朝食

  ホテルで食べる高級料理風より,マ−ケットでの露店の物の方がおいしかったよ
うでした。ただし,アイスキャンディ−や野菜ス−プで腹をこわさないように!

 まずは旧インカ帝国の首都“クスコ”。標高3430mもありインカの遺跡も豊
富。夜はレストランに入ると,アマチュアバンドが民族楽器を演奏し2〜3局歌い
交代,だんだんうまくなっていく。交代するときには必ず自分らのカセットテ−プ
を売り回り,それで食っているとのこと。
翌日は日曜日だったので,30Kmほど離れたピサクにインディオの市を見に行き
ました。自作手織物・土器・農作物・酒などを持って集まり物々交換もしている。
カラフルな衣装と女性の帽子,なん枚も重ねてはいているスカ−ト。同じモンゴル
班のインディオの人たちが身近に感じてきました。ただし,風呂にはいることがほ
とんどないため,5m先からも臭うのにはまいった。

 ここでアルパカの手編のセ−タ−を買い,翌日は空中都市と呼ばれている“マチ
ュピチュ”に出かけました。クスコから高原列車(スイッチバックしていく)でア
ンデスの山並を見つめて,山岳地域からジャングル地域に入り込んでいく。三面ウ
ルバンバ川に囲まれた断崖絶壁の頂上にあって,石積建築の要塞都市を形成,住民
が空中に消えた廃虚にふさわしい眺めでした。ここで聞いた“コンドルは飛んで行
く”は最高に雰囲気がありました。

 ここから高原列車に乗り,一路“プ−ノ”へ。リマより南東1350Km,標高
3870mで,葦ずくめの“ウル族”の住むチチカカ湖(南米最大で,船が周航す
るものでは世界で最も高い所にある湖)は標高3812m。さっそく船でタキ−レ
島に向け出発,途中ウロス島で葦の地面(?)の上に葦の家を建て,葦の船に乗り,
葦も食べる,葦ずくしの“ウル族”を横目にみて4時間,チチカカ湖のまん中にあ
るタキ−レ島に到着。

 男が手回しミシンを回しチョッキを作り,毛糸の帽子を編み,女が畑を耕すとい
う大変平和な島です。チチカカ湖に沈む夕日,昇る朝日は最高にきれいでした。
なにも汚れていない空気にふれて本当に心が洗われるような2日間でした。

 そして,ペル−最後の目的地アレキパへ。付近でとれる白い火山岩を利用してい
るので町全体が白ずくめで,寺院も多く,“アレキパ富士”と呼ばれているミステ
ィ火山(5821m)もあり,邦人には住みやすいところのようです。
そのほかにもペル−には地上絵で有名な“ナスカ”,アマゾン地区の“イキトス”
等の見所もたくさんありましたが,時間がなくて行けませんでした。

 ペル−はアフリカなどと比べると中進国という感じが強く,ほとんどの隊員が下
宿住いで食事・掃除付きが標準で,ゲストハウスにはビデオが置いてあり,紅白歌
合戦もすぐ見れるという状況です。それに比べて私のいたケニアでは,政府が準備
することになっている住宅が用意されていないため,自分で煉瓦を積み家を作って
しまった奴や,乾期になると雨が一滴も降らないため一週間バケツ一杯で過ごさな
ければならない奴がおり,やはりアフリカはまだまだ発展途上という感はまぬがれ
ませんでした。

 ペル−を出た私は,カリブ海のキュラソ−島,トリニダ−ド・トバゴを見てきま
したが,クル−ジングやカジノにいく金のない貧乏旅行者にはただ空港から町中に
出るタクシ−代20ドルがもったいないという感想しかありませんでした。つぎは
もっとリッチになって行ってみよっと!

 最後に寄ったのはメキシコで,アカプルコの別荘地帯のクル−ジングで崖下から
エレベ−タ−で昇っていく別荘や,毎晩のようにアメリカの有名な歌手がディナ−
ショウ−を催しているのを見て本当に世界は広いと感じた旅でした。

 まるで旅行案内のようになってしまったついでに“3C”という言葉を知ってい
ますか?世界の美人の産地だそうで,ちなみに“チリ”,“コスタリカ”,“コロ
ンビア”だそうです。私もケニアの真っ黒な顔ばかり見ていたせいか,ペル−の街
角の婦人警官を見てドキッとしました。

 さて,皆さんどう感じましたか?私の舌足らずな文章ではうまく表現しきれてい
ないところや,紙面の都合上カットしてしまった話題等も数多くありますが,質問
や意見・感想などありましたらメ−ル下さい。

 さて,次回の“中国シルクロ−ド編”をお楽しみに!

              入間のEMOより        1990.1

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         <<< 協力隊物語8 中国シルクロ-ド編 >>>

 ケニアより帰国してほぼ3年,そろそろ体の中の虫がムズムスしだした私は転職
の機会を利用して,かねてより一度行ってみたかった“シルクロ−ド”へ「地球の
歩き方」一冊を持って旅に出た。

  一人旅の好きな私は,今回もただ“シルクロ−ド”という心ばかりが先行してい
て日本国内でビザの手続きをする時間がなかったため,とりあえず香港でビザを取
ることとし,香港往復の安チケットを買って,まだ木枯しの吹く2月1日に出発。
夕方に成田を出て夜8時半頃香港に着き,10時にはホテルへ。その晩すぐ香港の
旅行業者が来て,書類の書き方や中国入国に関する説明を受けた。この時期日本人
観光客は少なく,私1人に2人の添乗員が付くという歓迎ぶり(?)。旧正月を控
えていたので華僑の人たちの里帰り組が大変多く,中国国内では公共の交通機関が
ものすごい混雑ぶりだった。

 主なル−トは,
成田→香港→広州→桂林→昆明→大里→成都→西安→北京→烏魯木斉→吐魯番→
上海→香港→成田
 で,計28日間の旅だった。

 中国といっても5・6年位前は団体旅行か,中国国営の旅行社に頼むか,はたま
た開放都市41の何処かへ行き,そこで許可をもらってその他の場所に行く等かな
り制限されていたが,私の行ったときにはすでに140都市程度が開放都市となり,
観光客の行くところならたいていは許可なく行けるようになっていた。

 ホテルや交通機関の予約をしたりして旅のおもしろさを損なうのが嫌いな私は,
どうしてもしょうがない時以外はまったく予約をとらないため,どの町に行って
ももっとも必要なのは地図と換金だ。

 地図は街角の露天や本屋で20〜30円で手に入り,イラスト入りのほうが分か
り易くてよい。

  金はだ換券と人民元の2種類があり,だ換券は円やドルを中国銀行で換えたとき
に得られ,人民元は町で買物をした時や物を食べたとき等におつりでもらうことに
なる。使う時には両方同じ価値と言いたいところだが,だ換券でなければ買えない
もの(外国製品や高級品)があるため,当然のごとく闇レ−トが成立ち,1.4〜
1.5倍になる。そこで“チェンジマネ−”のおにいちゃんの登場となるわけだ。
良心的に(?!)正規のヤミレ−ト(どういうこっちゃ?)で換えてくれる者もい
れば,始めに2,3枚足らない札束を渡しておき,こちらが文句を言うと,ちょっ
とかしてみろとばかりにおもむろに目の前で数え始め,足らない2,3枚を足すの
だがこれがくせもので,渡すときに4,5枚程度ちょろまかすため結局4,5枚足
らないままとなる。こちらもやましいところがあるため公には枚数を数えられず,
ポケットの中で数えどうも足らないのでそう言うと,「ポリスだ」と言って逃げよ
うとする。ついて行こうとしたら,回りから仲間が出てきて地下鉄の階段に連れ込
もうとするので振り切って逃げてきた。結局危ない目にあって損しただけだった。

 香港のロ−ウより入り中国側のシンチェンに抜ければそこはもう待望の中国,や
ってきました孫悟空の国。一泊目は広州の駅前の高級ホテルに泊まり,現地旅行社
の手配により翌日の桂林行きの飛行機の切符を手配してもらう。

 交通機関について言えば,庶民の足はなんといってもバス。こんなの走るのと思
うような“田舎のバスも顔負け”のものから,観光客向けのデラックスバスにいた
るまでピンからキリまで。ちょっとぐらい安いからといって,ボロバスに乗ろうも
のなら大変。椅子が最悪で腰は痛くなるわ,人はぎゅうぎゅう詰めで,途中でパン
クして立ち往生,予定の時間より12時間以上遅れるわでいいことなし。「まっ,
こんなもんだ!さすが中国。」と思いたい人はどうぞご自由に。

 次は鉄道。あちらでは“火車”で,バスが“公共汽車”(念のため)。運賃は庶
民用,華僑用,外人観光客用と3段階に分かれており(他の交通機関や一部食堂等
等でも同じ),庶民料金の3〜5倍以上にもなる。彼らの月給が6千〜1万円程度
あるかないかだからそれもしょうがないのかな。

 グレ−ドは,
特快・・・・超特急(庶民は料金が高いのでほとんど乗らない。上層部の人と観光
      客用)で,200Kmはノンストップ。
直快・・・・特急で,加快料は特快の1/2。50Kmに1度程度停車。
快速・・・・急行にあたり,近い都市間を走っている。
客・・・・・一般大衆の乗る普通列車で,物売りのおっちゃんや乗っている人が新
      鮮(?!)。
 また座席は,
軟臥(ロ−ウォ−)・・・・コンパ−トメント式の一等寝台で,お茶や食事のサ−
              ビスもある。
硬臥(インウォ−)・・・・普通寝台で,全席指定。上,中,下の3つがある。
軟座(ロ−ヅォ−)・・・・白いカバ−のソフトシ−トで対座式。
硬座(インヅォ−)・・・・中国人民の最もポピュラ−な足で,ニワトリやカメま
             でが乗客となる本当の中国が見れるところだ。
なにしろ,北京−烏魯木斉(ウルムチ)間なら3,774Kmで約75時間,3日
3晩をかけて走るので乗る席を考えないとたいへんな事になる。

 観光局の場合,一般的には旅行社で予め予約をしてあることが多いため,飛行機
でも鉄道でも遅れない限り快適な乗り物となるが,私のように“行方さだめぬ”旅
行者は切符の手配に1日を費すこともある。
中国では列車の始発駅から終着駅の間までしか切符が買えないため,列車を乗り継
ぐ場合にはそれこそ悲惨。終着駅か乗換え駅に着いた途端,走りに走って切符売り
の窓口まで全力疾走。そこにはもう何人も並んでいるので順番を待つ。ちょっと汚
い格好をして中国人の振りをし,紙に行き先と時間,列車番号を書いて渡せば,中
国人料金で切符が買える。ただし,2〜3時間の余裕をもっておかないと,せっか
く手にいれようとした切符も時間が間に合わなくなったり,窓口に並んだ列が正し
いかどうか近くの者に確かめ,2時間も待ったにも関わらず,「ここは当日券のみ
で明日の券は市内の発券所に行け。」(ここまですべてボディ−ランゲッジ)だと
いわれ,またまた3時間程並ぶことになる。でもやっと切符を手にいれた時の感激
は最高だった。いまもちゃんと切符はとってあります。

 さて,広州より飛行機で山水画の世界の“桂林(クイリン)”へ。まるで掛軸が
そのまま抜けでてきたような風景は“り江下り”で。町内の観光は貸し自転車(レ
ンタサイクルでないところがミソ,昔の黒い実用車)が最適。

 桂林(クイリン)から昆明(クンミン),そして大里(ダ−リ)へ。まだ開放さ
れたばかりなので町には外国人が泊まれる宿は招待所一つしかない。翌日が日曜日
だったので近くで開かれる市にでかけた。途中,道端で牛の解体が始まったのでち
ょっと見学,15分も経たない内に解体してしまった。
市では露天の床屋からカラフルな民族衣装で着飾った小数部族の人たち。特に赤ち
ゃんをあやしながら露店をしていたお母さんには思わずカメラを向けてしまった。
いくらフィルムがあっても足らない。

  もう一度昆明にもどり,西安に行きたかったのだが飛行機はもういっぱいで,一
週間待たないと乗れないとの事なので,とりあえず成都まで列車の切符(硬座)を
発券所で並んでかい出発。テバナはかむわ,タンははくわ,ゴミは捨てるわ,席以
外の通路はもとより,便所の脇にまで席を作って2〜3日も乗って行く(住むと言
ったほうがよいかな)のだから大変な騒ぎだ。乗車率300%ぐらいはいっており,
もし席の指定を持たないで乗ったらどうなった事か。親父に話したらそれは戦後の
買い出し列車にそっくりだそうだ。列車の上にまでは乗っていなかったがそれ以外
はほんとうによく似ていた。成都で食べたマ−ボ−豆腐は真っ赤で豆腐しか入って
いないくてものすごく辛かった。2人でお椀いっぱいも食べれなかった。

 次は西安。かつての長安で,駅前の解放飯店に泊まり翌日は有名な大雁塔・兵場
よう・華清池を回るツア−に参加。特に秦始皇陵を取り巻く何千もの実物大の“は
にわ”の群れは圧巻だった。大学関係で知合いの西安冶金建築学院の教授のところ
を訪ね,個人的研究の事や中国のソ−ラ−利用・省エネについてインタヴュ−し,
ついでに中国の個人経営店のことについて聞く。彼の月給は160元で,住宅は2
から3元程度とか。しかし,自転車の修理屋や自動車修理等の個人経営組は100
0〜1500元というからびっくり。こんなに格差が開いていていいのか?(もと
もと社会主義国のトップと庶民の差が80〜100倍程度あるのは有名だが,一般
庶民(?)でもこんなに差がついてしまって本当に大丈夫なのだろうか)。最近で
は“マンゲンコ”という言葉もできたとか!

 西安から烏魯木斉(ウルムチ)行きの飛行機の切符がとれなかったので,一度北
京に戻り,北京からウルムチへ。夏なら南山牧場でカザフ族とたわむれたり,天池
でパオに泊まったりできるのだが,今は冬道路は凍結してチェ−ンをつけていない
バスはノロノロ。バザ−ルではナイフや干しぶどうを買う。

 ウイグル地区は漢民族とは違い大変ひとなつこく,楽観主義者が多い。中近東風・
ロシア風・中国人風・ヨ−ロッパ風の人たちがごちゃごちゃという感じ。ここから
いよいよシルクロ−ドのまっただなか,吐魯番(トルファン)へ。

 ウルムチからバスで6時間砂漠地帯をぶっ飛ばすとそこはもうまったくのシルク
ロ−ド。日中には23℃になるが,夜間は−20,30℃にもなる。名物のドンキ
−タクシ−の荷台にのり吐魯番賓館へ。子供らが“バイバイ”といってあいさつし
てくる“バイバイロ−ド”を通って蘇公塔へ。ドンキ−でとぼとぼ行くには最高の
“交河故城”,三蔵法師が仁王経の講義をした“高昌故城”,石窟のある“ベゼク
リク千仏洞”,ミイラのある“アスタ−ナ古墳群”等本当に見応えのあるものばか
りだった。砂ばかりの古墳にボ−としていたら,むこうからドンキ−馬車に乗った
おっさんがきた。突然,何千年もバックトゥ−・ザ・フュ−チャ−,あのむっとす
るような風が最高だった。

 吐魯番−→烏魯木斉−→上海と飛び,浦江飯店へ。見所は,

豫園商場・・・上海の浅草で,毎日10〜30万人もの客が集まる。
准海路・・・庶民の通り
南京路・・・おのぼりさんの通り
朝の外灘・・・市民による太極拳や剣舞がみられる。
上海風呂・・・垢落しの三助氏や爪切り,マッサ−ジ,耳ほり,マニュキュア等の
              プロがいる。
ブロ−ドウェイマンション・・・ここからの眺めがよい。

 今回は行くことができなかったが,小数民族の見られる“シ−サンナンパ”,
“ラサ”は人気があった。

 今度は中国の道をオ−トバイで飛ばしてみたいな〜。

 では,次回は“協力隊とはなんだ”です。

              入間のEMOより     1990.1

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      <<< 協力隊物語9 協力隊とはなんだ! >>>

 ある日大学の後輩(Y)が私(H)の家に訪ねてきました。

H:「久しぶりだね,何か用かい。まあ上がりなよ。」

Y:「ええ,実は先輩最近つくづく思うんですけど,いい加減今の生活にうんざり
して,感動することが少ないような気がするんです。毎日満員電車にゆられて同じ
道を通り会社に通う事の繰り返し,仕事をしていても先が見えてる感じだし,自分
の意志でなく何かに動かされているようで本当につまらない。たまたま,先輩が協
力隊でケニアに行ってきたと聞いたものですから,ちょっと話が聞きたくてやって
きました。」

H:「そう。私がケニアに行っていたのは4年程前で,帰りには中南米を回って帰
って来たんだけれど,青年海外協力隊事務局(本部は広尾)という国際協力事業団
(本部は新宿三井ビルの中)の1部所で送りだしていて,募集は春と秋の2回あり,
最近では結構応募者も多くなり,なかなかの倍率らしいと聞いているよ。」

Y:「試験がむずかしいということも聞いたことがありますが,私でも受かります
か?」

H:「どんな業種で行くのかによるけれども,技術・英語・作文・面接試験があり,
やはり人物本位らしいよ。OB・OGは8,000人程になり,現在でも約1,7
00人の隊員が海外で活躍していて,アジアが1/3,アフリカが1/3,残り
1/3が中南米・中近東・大洋州地域だ。業種も多岐にわたり,農業・漁業・食品
加工,冶金・陶磁器,工作機械・電子機器・無線通信・自動車整備・電話交換機,
建築・土木・測量,看護婦・助産婦・医師・臨床検査技師,家政・婦人子供服・理
数科教師・司書・音楽,柔道・空手・体育競技・陸上競技等で,特に技術系の場合
実務経験の有無は大きく影響するようだ。むこうにいって教えるのに大学教育のみ
ではまったく用をなさないからね。」

Y:「でも,私はどうも語学はにがてで。」

H:「だいたい技術系でそんなに語学の得意な人は多くないし,英語ばかりではな
く,スペイン語・フランス語・スワヒリ語・ベンガル語等もあるわけだから,要は
むこうで暮し,仕事をするために操らなければならない言葉の素養があるかどうか
だ。後は行ってからでもなんとかなるものだ。ただし,教師として赴任する場合に
はすぐにでも生徒の前で英語で説明しなければならないわけだからちょっと厳しい
ようだよ。」

Y:「受かった後も語学訓練なんかもあるんですか?」

H:「派遣前訓練が80日間あり,マラソンから始まって各国の国旗掲揚,語学,
派遣国事情,応急手当法,衛生事情等を勉強し,派遣後1ヶ月程度現地の田舎等で
あちらの生活様式に慣れるため現地訓練をする事が多いようだ。もちろんクラブ活
動や研修所付近の老人ホ−ムや農家に行っての手伝いなどもあるんだよ。」 

Y:「なかなかたいへんそうですが,給料はもらえるんですか?」

H:「給料と言うより,生活費といったほうがいいかもしれない。$250から
$300を現地でもらい,国内では1ヶ月9万円ほどのわりで積み立てている。住
宅は受け入れ国で手配することになっているので,食費やこずかいには十分だとお
もうよ。ケニアの場合,掃除夫のおじちゃんなんか6〜7千円程度だったし,私と
同程度の給料をもらっているのは大卒(超エリ−ト)2年程度の人と同じだったの
で,結構高級取りということになる。また,帰国後のある程度の生活費として国内
積立金制度でためており,280万円くらいたまっているよ。ただ,海外に日本の
会社から派遣されて働いている人は,国内でのぶんも入れて50万から80万以上
はもらっているはずだから,どこに重点を置くかだろうね。」

Y:「へ−,ボランティアといっても結構優遇されているんですね。ところで,私
は現在勤めているんですが,やはりやめなければ参加できませんか?」

H:「そんなことはないさ。私のころは全体で2〜2.5割程度が休職参加してい
たが,最近ではかなり休職参加も増えてきたようだよ。官公庁では結構認めるとこ
ろが多くなっているし,一般企業でも退職せずに参加できるように認める会社も徐
々に増えてきた。
人件費補てん制度があるので結構参加しやすくなったしね。ただ,突然間際になっ
て上司に連絡したのではまずいこともあるので,よく相談しておいたほうがいいよ。
それから原則的に単身赴任なので結婚していても奥さんと子供を置いて行くことに
なり,その間は国内積立金(約9万円)を国内の家族の生活費として支給されるが,
これだけで足りるかどうかちょっと心配だね。」

Y:「行く本人は好きで行くからいいでしょうが,奥さんと子供は大変ですね。よ
く理解してくれていないと絶対許さないでしょうね。親からの反対もあるだろうし,
周りを説得するのがたいへんだな〜。それに休職の場合は戻る所があるからいいで
すが,退職の場合は再就職が問題になりますね。」

H:「私も親の反対を受けて説得するのが大変だった。再就職については,帰国後
の研修会や個別カウンセリング等もやっているが,こちらOB側にしてみればまだ
まだというところだし,日本の制度そのものがあまり転職を認めていないので,ち
ょっと厳しいことは覚悟しておいたほうがいいね。また協力隊のような経験をして
しまうと日本に返ってきても一般に人とちょっと感覚が違ってくるし,また海外に
出て行くチャンスを狙うようになるので,もとの会社に満足できずにうずうずして
くることもある。だからといって行くなといっているわけではないよ。」

Y:「私はただで海外旅行ができる程度に考えていたのですが,それを聞いてちょ
っと考え直しました。でもあちこち旅行なんかもできるんでしょ。」

H:「それはそうさ。だいたい1年たつと任国外旅行が認められるので,隣の国な
らば旅行できるようになるし,帰りには1ヶ月の猶予があるので私のように中南米
に寄って帰ることもできる。ただ,ケニアの都会でも郊外や地方では電気と水道の
あることが少なく,夜はランプ生活をし,こうもりと共同生活をすることとなる。
ひどいところでは近くの川でワニに喰われた子供がいたり,1週間バケツ一杯で過
ごさなければならないところがあったり,強盗がドアをぶち破ろうとしたりなかな
か大変なところだ。」

Y:「子供の頃”少年ケニア”なんて番組があり,なんとなく親しみがあるのです
が,実際,治安や病気なんかは大丈夫なんですか?」

H:「やはり都会や地方都市では暗くなると危ないよ。特に私の住んでいたエルド
レットはケニア4番目の地方都市で工業を中心とした人口8万人の新興都市なんだ
が,田舎で食いつめた連中がなんとか都会に行けば食えるだろうと集まって来るの
はいいが,結局食いあぶれて万引やかっぱらい,詐欺まがいの事をやることになる。
“日本人は物持ちと定評で狙われ易いからよく注意しろ”と同僚から言われていた
よ。“暗くなってから一人で歩いたりしたら危ない。必ずオ−トバイか車のような
止めようとしても止まらないものに乗って動けだって。”それにたった1年の間に
4回も家に泥棒がはいられるし,警官は泥棒の上前をはねるし,となりの子供が泥
棒の手下だったりで大変なところだった。警官をみたら泥棒と思えなんて言ってい
たっけ。そう,病気についてはよくかかるのはマラリヤが一番多かったね。予防薬
はあるが一度かかるとちょっと無理したときにぶり返し,熱が出で歯の根が合わな
いぐらい震えだす。私は好運にもかかったことがなかったが,かかった奴を見てい
ると意識がもうろうとするらしく,あらぬ事を口走ったりもしていたよ。」

Y:「あっ、もうこんな時間ですか。きょうはどうもいろいろ面白いお話をありが
とうございました。また,寄りますのでつづきはそのときにまた聞かせて下さい。」

H:「どうもとりとめもない話をしてしまったようだが,概略はわかってもらえた
と思うよ。じゃあまた,いつでも時間ができたときに寄ってくれ。」

 【参考】
   *青年海外協力隊事務局   啓発課
     〒150 東京都渋谷区広尾4−2−24
     電話      03−400−7261

 では、次回は最終回“日本の常識は世界の非常識”です。

                          入間のEMOより     1990.1

#0010 sci4708  9001130015

        <<< 協力隊物語10 日本の常識は世界の非常識 >>>

  とうとうこの物語も最終回となりました。ちょっとショッキングな題名かも知れ
ませんが、これは私の実感です。
 久しぶりに大学の後輩(Y)が私(H)の家に訪ねてきて、ちょっと相談したい
ことがあるとのことです。

H:「おお、久しぶりだね。急に何かあったのかい。」

Y:「本当に御無沙汰しています。実はこの前の話を聞いていろいろ考えた末、会
社の上司と相談し、協力隊の試験を受けたら合格の通知がきましたので報告かたが
たやってきた訳なんです。ペ−パ−テストはあまりできたとは思われなかったので
きっと面接試験が良かったのでしょうね。来月から訓練に入り4ヶ月後には中国に
向けて出発です。今日は任国に行くにあたっての心構えなどを聞きたいと思って参
りました。」

H:「それはそれはおめでとう。でも君の会社では休職は認めてくれそうもないだ
ろうから、帰国してからの職探しのことも心の隅に置いておかなければならないね。
今からそんなことをいってせっかく盛り上がった気持ちをくじくのも私の本意では
ないし、明日は明日の風が吹くともいうからこんなところにしておこう。
 私がアドバイスするとすれば“日本の常識は世界の非常識”ということだ。

 最近中国方面がだいぶ騒がしくなってきたけれど,私がケニアに来て1年ほどた
った時首都のナイロビ近郊で一部の軍隊が反乱を起こし,そのとばっちりを受けて
日本人観光客が政府軍の兵隊に撃たれて死ぬという事件が起きたんだ。原因はホテ
ルの窓から望遠レンズで下の戦闘風景を撮ろうとしてつい夢中になり,身を乗り出
していたためまるで下の兵士からみると鉄砲で狙っているように見えたのが原因だ
った。全くの不注意としかいいようがないが,このとき空港に向かっていた連中は
兵隊に停止を命じられ,銃を突きつけられたまま道路に45分ぐらいうつ伏せにな
ったまま。まったく生きた心地がしなかったと言っている人もいたし,テレビのラ
ットパトロ−ルばりでジ−プの後ろに機関銃を据え付けてパトロ−ルしており,I
Dカ−ドを見せないと銃を引金に指をかけたまま向けられるので,本当に恐かった
と言っていたよ。」

Y:「へ−,それは大変だったんですね。そういう事があるとマスコミ関係がほっ
ておかないんじゃないですか?」

H:「うん,こういう治安が不安定の時になるとたいていはマスコミ関係を抑える
からね。このク−デタ−は8月初めの日曜日未明にあったんだが,まず始めにテレ
ビ局やラジオ局を占拠して朝6:30に“モイ政権は打倒された”というニュ−ス
を流し,ケニア全土に向かってアピ−ルしたため,それを信じたモイ大統領の出身
地近くの住民は後の災難を恐れて各家庭に飾ってあったモイ大統領の写真を川に流
してしまったんだ。このク−デタ−は2,3日で鎮圧されたのでその後どうなった
か知らないが,その人たちは真っ青になったことだろう。ナイロビ近郊ではこのあ
と一ヶ月以上も戒厳令が続き一時はどうなるかと心配したよ。」

Y:「それはきっと心配だったでしょうね。今度のク−デタ−の事といい,この前
の泥棒の上前をはねる警官の話と言い,今は笑いながら話していますがその時はほ
んとうに大変だったでしょう。日本ほど安全な国は逆に珍しいんでしょうか。とこ
ろでケニアでは仕事は簡単に手に入るんですか。」

H:「その辺が大変問題なんだ。私が協力活動をしていたエルドレットという町は
新興都市といわれ人口増加率がケニア中で2番目で,失業率はなんと40%だった
んだ。だから食いつめた連中がどんどん増えてきて私が帰る頃はかなり治安が良く
なかったね。 

 時間を良く守り大変よく働くウガンダ人ドライバ−がいたんだが,彼が“ミスタ
−・マツイ,残念だがもう会えない”と言うんで,“どうしてだ?”と聞いたら,
“私はウガンダ人だからこの国では長くは働けないんだ。後任のドライバ−は市会
議員の紹介のルオ−族だそうだ。”ということだった。いざ来てみれば,時間は守
らない,呼んでもこない,運転は荒っぽいでどこもいいところなし。ただ議員のコ
ネがあるから仕事はそこそこでも首を切られる心配はない。

  何しろケニア人1,700万人のうち,大きく分けて47種族,小さく分ければ
百数十種族といわれていて,その各々が入ってきたル−トが異なり,違う言葉をし
ゃべり,異なる飯を食うのだから。議員に種族別の定員がありそれにそって選ばれ
るし,コネがあるものが勝ちというのでは,せっかく一生懸命にやっても認められ
ない訳だし,やる気も失せてしまうね。また,こずかい銭稼ぎのプライベ−トジョ
ブを設計副室長が斡旋し,自分の部下にやらせてピンはねしていた例もあるんだ。」

Y:「ところ変われば品変わるで,いろいろあるんですね。私は日本ほど縛られて
生活し,つまらないところはないと思っていましたが,悩む次元が違う感じですね。
つくづく日本に生まれたのを感謝しています。ところで向こうの生活はどうだった
んですか。特に現地の人たちの生活事情や食べ物は。」

H:「貧乏人の小だくさんという言葉があるが,ほんとうにそのとうり。月5〜8
千円しかもらっていない雑用のワ−カ−でさえ,子供が5人もおり親兄弟が彼の給
料だけが頼りなんて例も少なくない。

 食べ物は種族によって異なるが,最も一般的なのは“ウガリ・ナ・スクマウィキ”
でメイズと呼ばれている堅めで水分の少ないとうもろこしをつぶしてお湯にまぜて
皿に盛り,スクマという葉を千切りにして油でちょっと炒めた後,水を入れて30
分程度煮ておかずとするんだ。
 食事前には手を洗い,ウガリを親指・人差指・中指の3本でとり,スクマとその
汁をつけて食べる。庭にメイズとスクマさえ植えておけば食いっぱぐれはなし,金
はかからないし大変経済的だ。ただ,毎食これでは飽きてしまうから週一ぐらいに
は肉の煮たものを出したりする。田舎だと昼抜きの2食で朝は軽くというパタ−ン
が多いんだ。現地訓練でいったキクユ族のところでは“ギゼリ”といって,豆とメ
イズを延々1時間以上もかけて煮て,皿いっぱいごちそうになったこともあったが,
よくこれだけで我慢できるものだ。我々の胃とは違って栄養分の吸収率や分解・合
成能力が高いのではないだろうかと思ってしまうよ。

 とても“豊かさを持て余している日本”からきた私としては,2・3年ならいい
けれど一生生活するには大変なところだと思ったよ。」

Y:「私もそう思います。でも刺激の少ない日本もあまり面白くありませんね。と
ころで,ケニアと言えば動物王国という印象が強いんですが,簡単に見られんでし
ょうか。」

H:「この前もちょっと言ったが,四国ほどもあるナショナルパ−クがあったりし
て本当にスケ−ルが大きいんだ。それこそ見渡す限りの草原の向こう側から延々3
〜4キロ以上に渡って動物の移動が見え,その地響きたるやものすごい迫力だ。
 家の前では“ふんころがし”や“カメレオン”も見たし,オ−トバイで30分程
行ったところでは“キリン”の群れが50〜100頭ほどもおり,道路などを横断
するため電柱の電線が5m程度と高く,私もキリンが渡り終わるまで道路で待って
いたもので,実にのんびりとした風景だったよ。」

Y:「本当に羨ましいな。最近の子供はどうも頭ばかりで,ひ弱な子供が多いよう
に思えてならないのですが,一度そういう環境に入れたら少しは考え方も変わるの
ではないかな。」

H:「それはちょっと横暴かも知れないけれども,確かに今の日本の子供たちはフ
ァミコンばかり相手にして,カブト虫やクワガタなどはデパ−トに売っているもの
ぐらいにしか思っていないようだね。

 コンクリ−ト・ジャングルの中に住んでいたのではしょうがないのかもしれない
が,セミは幼虫として十数年地中におり自由に飛び回れるようになっても1シ−ズ
ンだけで死んでしまったり,ちょっとつっついただけなのに2度と生き返らなくな
ったりという経験がほとんどないので,逆に簡単に人を傷つけたり,殺したり,自
殺したりするんではないだろうか?私はいくら豊かな時代になっても自然とのふれ
合いは大切にしたいと思っているので,ほんとうに子供たちにとってはかわいそう
(?)な時代に生まれてきたものだ。」

Y:「そうかも知れませんね。私も中国へ行ったらできるだけ歩き回っていろいろ
なものを見てきたいと思っています。ところで私はあまり教えに行くとかというよ
うな大上段にふりかぶったような考えはないんですが,実際どうなんでしょうか。」

H:「あまり神経質に考えずに一緒にやって行こうということを基本に,ある時は
ずうずうしく自分の意見をいい,ある時は向こうのスタッフに任せ,臨機応変にや
ったらいいよ。

 ただ,こんな話があったよ。“バングラの手押しポンプ”といって,あるプロジ
ェクトで自国の威信を賭けて最新式のポンプを取り付けたのはいいが,1年も経つ
と交換部品はない,修理できる技術者はいないで,結局ほこりをかぶってしまい役
に立たなかったんだ。そこで現地で維持できる技術ということで手押しポンプに目
をつけ,日本からも優れたところは取入れ,現地で活用されている技術をうまく使
って大評判だったそうだ。

 この例でもわかるように,その国の実状にあった技術をいかに見つけ,やる気を
起こさせるかという“翻訳の技術”が大切なんだろうね。」

Y:「日本に生まれてきて良かったと思うと同時に,豊かさに酔いしれてしまって
自分がわからなくなってしまうのが恐いような気がしますね。今のうちに“人の貯
金”をしておかないとえらいことになるんじゃあないでしょうか。」

H:「そうだね。これからはどこを出たかではなく,何をしてきたか何ができるか
だ。大きすぎて頭がまわらないものより,小回りのきくほうが重要な時代になって
くるだろう。十分自分を磨いて,がんばってきてほしいね。時々は向こうから手紙
を出してくれよ。」

Y:「はい,わかりました。中国に着いたらさっそく向こうの状況などを報告しま
す。どうも今日は突然お伺いしまして失礼しました。ではまた,さようなら。」

 どうも皆さん,長い間のご愛読ありがとうございました。一応“協力隊物語 
PART T ”はこれにて終了致します。

何か質問や意見等があれば下記宛に連絡下さい。

  【住  所】
   〒358 埼玉県入間市豊岡1−3−7   松井 秀男

                  入間のEMOより     1990.1

#0011 sci2714  9001171336

  EMOさん、

  貴重な体験を読ませて頂きました。

  私も援助問題に関心があり、NGOに関わったり、またJOCV関係の職に就いて
  いたこともあります。民間団体の良さ、限界、また政府プログラムの良さ、不味さ
  も自分なりにですが、知っているつもりです。

  そして私はJOCVには、良い所もありますが改善すべき所があると思っています。
  これは事務局内部で仕事していた私の経験から感じたことでもあります。

  そんな私ですが、EMOさんは、本当によくやってくださったと思います。
  2年間、お疲れさまでした。

   "卵をかえす" の所は、援助するときに心しなくてはならない点を、非常に分かり
  やすく、初めての人でも理解しやすくまとまっており、関心いたしました。

  もし、EMOさんが許可して下さるなら、EMOさんのこの書き込みのプリントア
  ウトをバンクラディシュに行っている友人に送りたいのですが、どうでしょか?

  その友人は、やはりJOCVで行っています。私は政府プログラムのJOCVでな
  く、シャプラニールという民間団体のプログラムでいってはどうかと勧めたのです
  が、結局JOCVで行っています。元気にしているようです。

  一つ気になる部分がありました。「貧乏人の子だくさん」です。
  このあたりを少し説明していただけるといいのですが。
  なぜ途上国では貧しいにも関わらず子どもを沢山もうけるのか。

  kita-3

#0012 sci3523  9001171628

 娯楽がない(^_^;)、とかいう話を聞いたことが...

  イヤ、 タト ジャナクテ、ホントノハナシ...      MeltDown Crisis

#0013 sci1004  9001172010

娯楽がない っていうのは,援助問題の際によく言われる根本的誤謬です.

ご配慮ください 社務猫

#0014 sci3523  9001172218

 そうでしたか。すいませんでした。

  まだまだ勉強が足りない MeltDown Crisis

#0015 sci2714  9001251120

  練習コーナー#754にケセランパセラン*さんが感想を書いていますので
  emoさん、読んでくださいね。

  以上、お知らせでした。

  kita-3

  p.s.  ケセランパセラン*さん、ここに書きましたよ。
        ところで、パサランじゃなくてパセランなんですね。
        ご免なさい、間違えていました。

#0016 sci4708  9001302110

         <<< JOCVスト-リ-0 はじめに >>> 

 皆さん,お元気ですか?

  以前、協力隊物語を書きました”入間のEMO(松井)”といいます。
アフリカのケニア(エルドレット市)で建築の設計を2年間(1982年4月〜1984年
3月)やり,中南米に寄って帰国しました。

 前回の協力隊物語(全10編)では簡単な協力隊活動も含めた面白そうな話を書
きましたが,今回はテ−マをしぼり本格的な協力隊活動も含めたものを5編程度に
分けてみました。

 1.訓練編(派遣前訓練・現地訓練)
  ・派遣前訓練−−広尾と駒ヶ根の訓練所で語学や派遣国研究等3ヶ月間程度行
          われる。
  ・現地訓練−−−ケニアに着いてから田舎で3週間程度,生活事情や言葉・食
          べ物を含めて現地になじむために行われる。

  2.生活編
  ・気候・言葉−−ケニア・エルドレットの気候や言葉
  ・食べ物−−ウガリ,スクマウィキ,ギゼリ
    ・病気−−かかり易い病気と予防法
    ・住宅−−ケニア住宅事情等
    ・レクリエ−ション−−旅行や歓送迎会
    ・治安−−泥棒や警察

 3.仕事編
  ・エルドレット市役所−−組織や他の組織との違い
  ・業務内容−−どんな事をやったか
  ・ケニアの建築−−ケニアの建築の特徴や欠点 

  4.観光編
  ・ナショナルパ−ク−−自然動物公園と動物
  ・キリマンジャロ−−アフリカの最高峰
  ・ケニア山−−アフリカ第2峰
  ・砂漠ツア−−−ツルカナ湖ツ−リング
  ・その他−−モンバサ,マリンディ,ラム島など

 5.協力隊活動
  ・協力隊のありかた
   ・活動の問題点
  ・帰国後の就職問題
  ・その他

 以上のような内容のものをアップロ−ドするつもりですのでよろしくお願いしま
す。

                    入間のEMOより    1990.2

#0017 sci4708  9001302111

           <<<  JOCVスト-リ- 1 訓練編 >>>

 私は56年度4次隊(職種は建築)であったので、派遣前訓練は1981年12月から
1982年3月まででした。選考試験は一次試験と2次試験があり、専門試験・語学試
験・面接からなり、面接重視のようでした。もちろん語学ができるに越したことは
ありませんが、専門だけでも大変な私のような技術者の卵はそこまでやる余裕はあ
りませんでした。

 さて、試験に受かると次に待っているのは派遣前訓練で、主な目的は語学や派遣
される任地の研究、ボランティア活動等です。
  まず最初の1ヶ月は広尾の訓練所で、協力隊活動全般についての説明や任国の調
査が日課ですが、朝は6時起きで6時半には中庭に集合・点呼の後、毎日変わる各
国の国歌と国旗の掲揚、準備体操をした後2〜3kmのマラソン。7時半には朝食
を食べ、8時半頃から授業が始まります。土曜日にはレクリエ−ションでキャンプ
やソフトボ−ル大会等を行い、外泊許可を得れば土曜日に限って外泊もできますが
原則として宿泊所に缶詰めです。

 2ヶ月目からは駒ヶ根に移り最初は方広寺で座禅を3泊4日で行い、語学訓練に
入ります。何しろ4次隊は冬のまっただなかなので、薄手のトレ−ナ−1枚であの
寒風の吹きすさぶ場所での座禅は、足のしびれのほかに手足の痛さにも耐えなけれ
ばならず、なんでこんな所でこんな事をしなければならないのかとばかばかしくな
る事もありました。まあ、現場で夜中3時まで地下2階の基礎の耐圧版を打ってい
たのと比べればどっちもどっちかな。

 語学訓練の方は月曜日から金曜日まで8時半から3時まで続き、英語ばかりでな
く、フランス語・スペイン語はもとよりスワヒリ語(タンザニア)やベンガル語(
バングラディッシュ)が各々4〜6名程度のクラス分けをして行わます。英語の場
合は90分程度に分け、教科書の場面設定にそって会話を作っていくものから、突
然写真を見せられてその説明をその場の即興でやったり、テ−プを聞いて質問に答
えたりします。技術英語では自分の専門分野に関する事をメンバ−の前で30分間
説明し、質問にも答えなければならず、原稿は見れずメモを見るだけです。私など
もう散々でしたが、中間試験では中の上、最終試験ではなんとその上のクラスの全
員を抜いてしまい、カナダ出身の英語の教師から’EXCELLENT’と言ってもらいほ
っとしました。

 3時以降は任国の研究やクラブ活動を行い、夕食となります。翌日の語学の予習
や洗濯その他の雑用もあり、いつも寝るのは1時半か2時頃でした。
 
 土曜日はボランティア活動ということで近くの農家や養護老人ホ−ム・身障施設
等で労働奉仕か、スキ−やキャンプ・山登り等を行っていました。土曜の夜はみん
なで駒ヶ根の町に繰り出し、居酒屋やスナックはどこにいってもどこか見かけたよ
うな顔がいるという状況でした。日曜日は二日酔いが醒めるのを待ち、いい空気を
吸いサイクリングを楽しむか、テニスをして健康的に過ごしていました。

 語学のクラスでの1泊旅行が終わり、駒ヶ根最後の行事として行われる各々の勉
強した言葉による30分程度の劇が最高で、意味が分からなくても笑ってしまいま
した。私たちがやったのは”竹取り物語”の英語版でSFチックなものでした。
そのほか”子連れ狼”や”アリババと40人の盗賊”などです。途中で台詞が出て
こなかったり、ありあわせのもので作った衣装にしては皆いろいろ工夫していたよ
うです。

 最後の15日間はまた広尾に戻り、協力隊活動についてのまとめや救急訓練・救急
薬品の扱い方の講義等を受け、皇居2周マラソンでは危なく女性隊員に抜かれてい
たのを最後のラストスパ−トで抜きかえしましたがえらくくたびれました。
 東宮御所に呼ばれて現在の天皇陛下(そのときは皇太子)の激励を受け、そこに
置いてあった菊の紋章入りのたばこをおみやげにもらっていったり、壮行会が広尾
の事務所で行われたとき対立する代議士がきてお互い冷たい戦争合戦をしていたっ
け。

 いよいよ出発日が4/2夕方と決まり、英国航空(BA)で香港・コロンボ経由でセ
−シェル諸島マヘ島へ。ここでは12時間程度のトランジットなので、ホテルに夜中
着き昼過ぎまで”最後の楽園?”で過ごし、ケニアの首都ナイロビには4/3夜到着。
オフィシャル・パスポ−トにもランク分けがあるのか、あまり効力がありませんで
した。

 さて、私の現地訓練先はナイロビより北東に150kmほどいったNyeriの農家に決定
していたので、
 Nairobi−−→Embu−−→Runyenjes−−→S.A.Kyeni Sec.−−→Mbuguah's House
  8:30        11:30       12:30            13:15              17:00
        プジョ-     マタツ-          マタツ-                バイク
       (130km)     (45km)        (15km)               (4km)
 * プジョ−・・・フランスの車のメ−カ−名、ライトバンを改造して8〜10人ほ
         ど乗せて走る高速乗合タクシ−(100km程度の区間)
    マタツ−・・・ピックアップの荷台を改造して人を15人程度乗れるようにした
         庶民の足(20〜50km程度の区間)

以上のようなル−トで半日がかり、初めてのケニア一人旅だったのでだいぶ緊張し
ました。何処を見ても真っ黒な顔ばかりで、いつ飛びかかって来るのではないかと
心配でした。

  この頃は雨期になっているので、薄い雲が低く動いてきたかなと思った途端にバ
ケツをひっくり返したような雨が朝方降り、日中はほとんど降りません。現地訓練
の詳細は前回書きましたので、今回は代表的な一日を紹介しましょう。

 4月のある日:
 6:00  起床 
 6:30  準備体操をしてジョギング4km
 7:30  朝食 ポ−リッジとチャイ2〜3杯
 8:30  牛のさく修理(釘打ちを手伝う)
12:00   昼食 チャイとギゼリ
13:30  門構えの修理と壁修理
     枝でくんだ壁の構造体の中に土をいれ、表面に牛のふんか白っぽい土を
     塗って仕上げ
14:00  コ−ヒ−豆の収穫を手伝う
         以外と普通の実みたいなのでびっくりした。まさか最初からコ−ヒ−豆
     みたいな格好はしているわけないか?
15:30  収穫したコ−ヒ−豆を牛車で工場まで持って行く
     帰りは牛車の後ろに乗って運転(?)しながら帰ってきた。
17:00   親戚の連中がきたので鶏を2羽つぶして歓迎会?
21:00   暗いためロウソクをつかい、湯まで沸かしてもらいタライにためて体を洗
     う。電気と水道がないというのになんとぜいたくな事をするんだ!
21:30  土間の居間にてランプのもとで日記を書いたり、スワヒリ語の勉強をして
     ベットに。
22:00  睡眠

  * ポ−リッジ・・・トウモロコシの粉にレモン汁等をいれ湯でといた飲物
    チャイ・・・ミルクティ−で、朝しぼりたてのミルク入り
    ギゼリ・・・メイズという固くて白っぽい粒のトウモロコシと豆を延々1時
        間半以上かけて煮た物

 なお、年間4回派遣で1回毎の訓練生は110名程度そのうち25名程度が女性
で、男性の平均年齢が26.7歳なのに、女性軍は27.3歳でした。アフリカ関係で50%
程度を占めており、東南アジア・中南米・南太平洋諸国という構成比でした。現在
は倍増計画により年間3回派遣で約1,000名程度(2年で2,000名)が協力隊員とし
て活躍しています。

 ちょっと日記風になりすぎてあまりまとまらなくなってしまいました。

 次回は”生活編”です、お楽しみに!

             入間のEMOより      1990.2

#0018 sci4708  9001302114

      <<< JOCVスト−リ− 2 生活編 >>>

  皆さん、No.1(訓練編)はどうでしたか? 

今までの生活とは全く異なり、ある意味では軍隊生活のような派遣前訓練でしたが、
文字通り「同じ釜の飯・・・」ということでいろいろな分野の仲間と広くつき合う
機会を得られ、いまでも広くつきあっています。一生の財産ではないかと思ってい
ます。

 さて、ケニアは赤道直下の国だし、よくテレビで見るように裸の槍を持ったマサ
イ族がいるくらいだから、さぞかし暑いところだろうと思うかも知れませんが、私
の住んでいた”エルドレット”は標高2,100mで、雨期などには近くの木を許
可を得て切って薪にし暖炉で燃やさないと寒いくらいで、日本で言えば春先の気候
でした。もちろん海岸地区のモンバサやマリンディ等は日射しが強く毎日35℃〜
40℃程度で汗だくです。

 公式の言葉は”スワヒリ語と英語”で、エルドレット市役所での書類はすべて英
語で事足りました。ただし学校にあがるまでは”部族語”、学校にあがってからは
”スワヒリ語と英語”を学びます。国語以外の授業も英語で行われるため英語がわ
からないと成績も悪くなり、従って選考試験もいい点がとれず、ケニアのような超
学歴社会では一生負目を負うことになります。英国が勝手に線引きした国家に、生
まれも育ちも異なる百数十の部族がいるのですから。

 ケニアでの一般的な食事は”ウガリ・ナ・スクマウィキ”で、
ウガリ・・・メイズ(トウモロコシより白くて、実が固い)を細かくつぶして粉に
      し、湯でといてもち状にし手でちぎりながら汁ものと一緒に食べる。
スクマウィキ・・・スクマという草の葉を千切りにし、油で炒めた後水を入れて煮
      たもの。ほとんど調味料は入れない。
 どちらも裏庭に植えておけばほとんど金がかからず食って行けるわけです。
その他、ギゼリといってメイズと豆を1時間以上かけて煮たものもあります。バラ
エティ−は少なく、調味料もほとんどラ−ドか植物油・塩であり、彼らはまだ質よ
り量というところです。ただ、毎食こんな物ばかりしか食べていないでよく栄養が
偏らないなとこちらの方が心配になってきてしまいますが、私らよりうまく養分を
とれるような構造になっているのでしょうか?それとも私たち日本人の方が贅沢に
なってきて本来持っていた機能を失ってしまったんでしょうか?

 前回にも病気の話はしましたが、やはり海外で生活していて一番心配なのはこれ
でしょう。マラリア(三日熱・四日熱,悪性)、赤痢、肝炎(A,B,C型)、日
射病等いろいろあります。

 マラリアの予防として三日熱・四日熱用に1日2錠程度、悪性用に週1回1錠程
度を飲んでいても、ちょっと体力が落ちるとすぐぶり返してしまいます。朝熱がひ
いて夕方上がり、毛布を何枚かけて寝ていても歯の根が合わないほどガタガタ震え
だし、熱のためあらぬ事も口ばしったりします。血液中にマラリア原虫が残ってい
るとしつこくぶり返すため、予防薬も汚染地区を離れてから1ヶ月以上飲み続ける
ように言われます。

 肝炎は、
A型・・・水や植物などなま物を食べたり、糞尿で汚染された物を口にしたりして
     なることが多い。γ−グロブリンを注射するのが唯一の予防法だが、4
     〜6ヶ月しか有効期限がなく絶対的なものではありません。
B型(血清肝炎)・・・輸血・出産その他、血液を注射されたり浴びたりして起こ
     るもの。
C型(新種)・・・・A型、B型ではない新種のもの。
 とあり、何回かかかって慢性化すると肝硬変に変わり、命にかかわるという文字
通り”肝心”なものです。治療もこれと言った決定打がなく、栄養を取って3〜6
ヶ月ブラブラしているといういわば”贅沢病”です。

  赤痢等にしても、帰国前ただの腹下しと思っていて帰国後の健康診断を受けたら
アメ−バ−性赤痢とわかり、帰国後のル−トを全部調べられ消毒できるところは全
部したらしく、仮に泊めてもらっていた兄夫婦にえらい迷惑をかけてしまったなど
という話もありました。特に地方の隊員は生物やよく煮沸していないものを口にす
ることが多いので気を付けなければなりません。
 
 夜の方の病気もいろいろ問題にはなっていましたが、それは個人的に。

 事務局にとっても任期中に隊員に何かがあると大変なので、機内持込み荷物程度
のバック一杯の薬をくれ、その中には日本では副作用が出る可能性があり一般に手
に入らない抗生物質があったりもしていました。

 さて、生活費については協力隊が責任を持ち、各派遣国の状況によって変わりま
すが私がいたときには米ドルで250〜300ドル程度でした。ケニアの現地事情
を考慮すればそれほどきつい金額ではありません。一部の隊員を除き結構国内旅行
等も楽しむことができました。

 隊員の住宅については受け入れ国の責任となるので、受け入れ機関による差が歴
然で、私のように”ケニアの軽井沢”と呼ばれ、敷地約 30x60m で3LDKの暖炉
付き、電気の給湯設備まで付いていた住宅に住んでいたものもいれば、受け入れ機
関がなかなか用意してくれないのに業を煮やし、協力隊より住宅資金をもらい自分
で家を建ててしまった者もいました。
 都市に住むものはたいていはオフィサ−クラスで結構身分の高い方に属するので、
アパ−トと言うよりはケニア風マンションかテラスハウスのようなところに住んで
いました。ただ、酔っぱらって大声で何か叫びながら隣のドクタ−の家のガラスを
割り、訴訟沙汰になった人もおり都会生活は何処でも大変です。

 暇のつぶしかたというのがこういう国では一番問題で、読書・旅行・ジョギング
という健康的なものから、ディスコやバ−めぐり等まで”ぴんからきり”です。
ナイロビのような都市なら映画・カジノ・ディスコ・バ−・日本レストラン何でも
ありますが、地方ではせいぜい中小都市で映画ぐらいのものです。
 何しろ仕事は8時から5時までで以後完全にフリ−だし、年間4週間程度の休暇
はあるし、1年たてば任国外旅行(隣接の国でオフィシャル・パスポ−トに記入し
てあるところのみ)もいけます。教師隊員など3ヶ月授業、1ヶ月休みというサイ
クルの繰り返しなので、しょっちゅう旅行ばかりしていたようです。私はタンザニ
アに行ってキリマンジャロに登ってきました。詳しくは協力隊物語<5>を。

 私のいた町には”エルドレット・ゴルフクラブ”というハイソサエティのクラブ
がありそのクラブの会員なら、ゴルフ・テニスやり放題、ビリヤ−ドやレストラン
宿泊施設まであり、エルドレット一です。週に一度ビデオの会には大型プロジェク
タ−に写して最新ビデオが見れます。私はそこでボナンザや将軍を見ました。この
クラブは大変品格が高く、まず推薦者をきめその人の紹介で各委員長(5〜6人)
に直接会い了解を得てサインを得た後選考委員会に提出、了解を得られたら今度は
メンバ−30人以上のサインを得るために毎週土・日に行き、集まれば最終委員会
にかけられ承認されれば晴れて正式メンバ−です。ケニアやウガンダに十数カ所あ
るゴルフクラブには何処でも会員として利用できます。特にナイロビゴルフクラブ
などは日本人で入れるのは、私たち(同じ市役所に派遣されていた土木隊員も)と
なんと大使のみというのでこちらの方がびっくりしてしまいました。

 最後に、やはり見知らない国に行って困るのは、治安と病院ではないでしょうか。
ケニアで1、2を争う新興都市”エルドレット”は地方から職を求めて人がわんさ
と集まりだんだん物騒になってきました。失業率は40%とかで、職のないいい兄
ちゃんがシティ−ホ−ルの芝生にごろごろしているんですから。泥棒のことについ
ては、協力隊物語<2>を見て下さい。

 次は私のプロフェッショナルの建築事情に関する”仕事編”です。

              入間のEMOより     1990.2

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          <<< JOCVスト−リ− 3 仕事編 >>>

 さて、今回の話題は私の専門分野の建築についてです。私はエルドレット市役所
で2年間ほど建築家として設計・監理をしてきました。

ケニアに派遣された場合、建築隊員を受け入れるとすれば、
 MOW・・・MINISTORY OF WORKSといい、日本では建設省の建築部門で、本庁は
       ナイロビ、各支所が州毎にある。本庁のデザインセクションで設計
       担当チ−フのかたちで設計をするか、各州の支所のNo.2として
       本庁の設計した建物の現場監理とデザイン部の管理をする。
 市役所・・・私が初めて建築隊員として入り、エルドレット市役所で小学校や幼
       稚園・診療所の市が建設・管理・運営しなければならないような建
       物の設計をする。
ということになりますが、ではまずエルドレット市から紹介しましょう。

【エルドレット紹介】
  Eldoretは東経35°17’、北緯0°31’、首都Nairobiより北西へ約320
km、Uasin Gishu高原の縁、標高2,050〜2,100mに横たわる比較的気
候のよい都市です。19世紀から今世紀初にかけ南アフリカからBoer人が入植時、
Uasin Gishuと呼ばれ始めたのが起源で、1912年にTown Shipを宣言、Ugandaの
富に食指を動かした英植民地政策により人口20,000人までに成長したEldoretは
1929年に市に昇格しました。1963年Kenyaは独立、以前より”ホワイト・
ハイランド”と呼ばれ、豊富な農産物収穫に裏打ちされた大地主(何十万エ−カ−
も土地を持っている)が多く、このとき英国人等より捨て値で土地を買ったケニア
人大地主も多い。Western Kenya における交通の要所であり、豊富な安価な労働力
を潜在させるEldoretはその有利な立地条件により、繊維・皮革・合板等数々の労
働集約的重要産業を誘致してきました。こうして現在EldoretはKenyaにおいて最も
高い人口増加率を有し、Western Kenyaの新興都市(Booming city)として成長めざ
ましいところです。人口は1979年時点で約8.5万人で、89%が市街地に集
中、転入人口の大部分が不良住宅の密集する非計画居住地区(スラム街)に住んで
います。

                           各地月平均温度(℃)
 場 所 標 高 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
Nairobi 1,661m  26  27   27   26   24   23   23   23   26   26   25   25
Monbasa    17   32   32   32   31   29   29   28   28   29   30   31   31
Eldoret 1,850   29   29   28   27   25   25   24   24   26   26   26   27
東 京      5    5    5    8   14   18   22   25   27   23   17   12    7

  
 工業団地建設に伴う労働者用住宅や公共施設(小学校や幼稚園等)の建設が急務
で、World Bankからの融資もケニア政府からの協力により順調に行われており、イ
ンフラ(基本的公共設備のことで上下水道や道路・学校等の事)の整備も着々と進
められています。

【エルドレット市建設部】
 エルドレット市役所のシステムとしては、Town Clerk(助役)のもとに各部があ
り、建築関係はMunicipal Engineer(建設部長)→Deputy Municipal Engineer(副
部長)→Assistant Municipal Engineer(係長)→Architect(建築家)ということ
になります。

  この部は実際に動きだしてから1年も経っておらず、人材の不足、特に実務経験
と知識・学問的裏付けをしっかりと行い得る技術者がきわめて少ない。また、大卒
というエリ−ト意識が鼻の高さとなり、計画性や管理能力がうまくなく、井の中の
蛙的な事が多いく能率が悪いこと。それでも大統領の出身地が近く、ケニア西部の
開発拠点にしようとしているため、ケニア第三の大学や学校・工場の建設が目白押
しでした。

【業務活動】
 ・Uganda Road Flats
      150戸程度の団地で3〜4階建て、敷地は320mx100mで計画中。
 ・Health Center in Rural Housing Estate
      市立診療所で延べ床面積640u、図面・入札書類もほぼ作成終了。
 ・Conversion for Shops in Pioneer Estate
      市営住宅の店舗改造計画で施工まで終了。
 ・Mayor's Paluor Conversion
      市長室の改装計画で、壁面・天井の張り替えと机・家具の選定が主。
 ・Nursery School
      市立幼稚園、2教室に台所・校長室・WC付き。
 ・Estimate for Kapsuswa Rental Scheme
      低所得者用市営住宅地内の洗い場の設計と見積。
 ・Primary School in Rural Housing Estate
      市立小学校の細部詳細と構造設計のための試掘穴の指示。
 ・Pioneer Market
      16店舗と管理人室・WCの小規模マ−ケット。
 ・Senior Staff Houses for Municipality
      上級職員用住宅で対象は部長級以上、建築面積120uの3LDK。
 ・Kidiwa Primary School
      16教室に職員室のついたスタンダ−ドタイプ
  ・Standard House
      個人的に考えたプロジェクトで、1,2,3,4LDKのスタンダ−ドタイ
   プをつくり、質の向上と確認申請の手間を省くために考えたもの。

  以上簡単に業務の事について書いてみました。あまり専門的になりすぎるのでこ
のへんにしておきましょう。

 次回は皆さん期待の”観光編”です。

              入間のEMOより     1990.2

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      <<< JOCVスト−リ− 4 観光編 >>>

 さて、今回の連載の中では目玉商品の観光編です。

「クイズ100人に聞きました」で”ケニア”といえば、おそらく

 1.サバンナ
 2.ライオン
 3.マサイ族
 4.キリン
 5.キリマンジャロ
 6.象
なんて事になるのでしょうか?

 実際、私がケニアに派遣されるときも親に反対された理由が、「そんな裸でやり
を持った連中がいるようなところへ行ってどうするつもりなのか」ということと、
「なんでおまえが行かなければならないのか」ということでした。行く本人もケニ
アと決まるまでどんな国だか知らなかったのですから当然かも知れませんね。

 ケニアの観光で一番の目玉はナショナルパ−クのツア−でしょう。いやおうなく
人間が霊長類なんだと意識してしまうし、自然の偉大さにただ呆然としてしまいま
す。手ごろな”ナイロビ・ナショナルパ−ク”から四国ほどもある”アンボセリ”
まで本物のサファリです。詳しくは前回の協力隊物語<5>を見て下さい。

 次はやはりキリマンジャロでしょう。なにしろ日本からだと7〜80万の金をか
けなければこられないのですから。キリマンジャロはタンザニアに属しますが、入
り易さや知名度からケニアから入国する事が多いようです。これも協力隊物語<5
>でふれましたので今回は省略。もし見ていない人がいましたら個人的にメ−ルを
下さい。再送します。

 ケニアでなければできないツア−というのが”砂漠ツア−”でこれは時間があれ
ばおすすめのコ−スで、一生の思い出に残るでしょう。私たちは同じコ−ス(と思
われる)を100ccのオ−トバイで走破しましたが、ナイロビから1週間ぐらい
かけて北方にある”ツルカナ湖”をトラックで砂漠を旅しながら回ろうというもの
で、らくだの行列に立ち往生したり、だちょうやシマウマと駈けっこをしたり、サ
バンナや砂漠に沈む夕日に大感激し、見渡す限り砂やサバンナばかりのところを5
〜60キロ爆走し、80kmに一軒しかない雑貨屋(といってもなまぬるいジュ−
スとほこりにまみれた菓子程度しかない)に飛び込んでやっとほっとしたり、裸の
部族とごっつんこして、あわててビスケットを出してみたり、ワニ狩りに行ったり
と、ちょっとやそっとでは体験できないことがいとも簡単に初体験。ただし、マラ
リヤや赤痢・肝炎等の病気には十分ご注意を。

 そしてヨ−ロッパでは有名な観光地マリンディとラム島を紹介しましょう。
モンバサというケニア第2都市で港町(首都ナイロビから車で6時間ぐらい)から
北へ20Km程度。そこは高級ホテル(といっても日本円で当時1泊3,000〜4,000
円)がずらり。テニスコ−トにプライベ−トビ−チ、トロピカルな果物がいやにな
るほど食べられる。でもこれくらいならそこらの東南アジアに旅行に行けばもっと
楽しめるという人にはやはりラム島でしょう。このマリンディよりバスに乗ること
5時間、洗濯板のような道路なのでそろそろ尻が痛いなと思い始めたらやっと到着
です。こんな苦労をしたくない、臭いケニア人と一緒のバスに乗って時間がもった
いないという人にはナイロビからモンバサ経由の飛行機もあります。

 ラム島にはこれといった見所などといったものはありませんが、私には何もかも
が新鮮でした。それはここの人たちの90%以上がモスリムで、酒を飲めるところ
といったらホテルのバ−1つしかなく、女性はみな黒の着物を着てベ−ルで顔を隠
しており、そんなところでも”夜の女”がいるのにはびっくりしました。
 ビ−チまでは歩いて40分ぐらいかかり、そのあいだの日差しがものすごくきつ
く、太股や肩が焼けすぎて寝るときが大変でした。このビ−チには観光客以外はほ
とんどこないので、私の場合見渡す限りだれもいませんでしたが、昼ごろノ−パン
のムズング(スワヒリ語で白人の意)が2人ほどお隣さんになりましたが、残念な
がら遠すぎました。

 ここの一番の楽しみは帆船に乗ることで、夕方港(?)でぶらぶらしていると、
「船に乗らないか?」と声をかけてくる者がいます。朝8時頃港をでて、11時頃
まで島づたいに船を走らせ、途中木の切れ端に釣り糸をつけたもので熱帯魚みたい
な魚を釣り、昼ごろ対岸の島に着けて、用意してあったキャベツやピ−マン・にん
じん等の生野菜の上に釣った魚の焼いたものをのせ、サラダの出来上りです。真っ
青な海をバックにこれが以外とうまかった。昼が終わると島を見物するもよし、海
岸でぼけっとしているもよし。3時頃になるとまたぶらぶらと帰って行く事になり
ます。この船の乗員は船長、航海士、バランサ−要員、水夫と4人で、客は私とイ
ギリス人とアメリカ人の女教師の3人でした。実を言うと長さ4m足らずの帆船で
ヨットのように下に重りがついていないので、船のへりに丸太を渡し、バランサ−
となる小学生程度の子供が波のゆれにあわせて丸太のあっちに行ったり、こっちに
行ったり、ときどき失敗して尻を水につけたときには皆で大笑いでした。そしてこ
の航海士格の者が面白い奴で、硬い発音の英語をしゃべり、これはドイツ人の英語
とか、早口の巻舌でしゃべりアメリカ人の英語だ。最後は恥ずかしそうにしゃべり
日本人だとかいって、皆を笑わしてくれました。

 最後に首都ナイロビのことを少し。ここにはカジノあり、ディスコあり、イタリ
ア・フランス料理は言うに及ばず、朝鮮焼肉や中国料理・日本料理まで食べられま
す。映画館も5〜6館あり、ちょっと遅れてくるものもありますが、アメリカ映画
だけでなく、カンフ−やたまに日本映画もきました。驚くのはインド映画の多いこ
とで、確かにイギリス人が鉄道建設に連れてきたインド人がここケニアで大きく根
を張り、経済界にものすごい勢力を持っていることによるのでしょう。20〜30
階建てのビルも建ち並び、ナイロビだけみればこんな裕福な国にボランティアに来
るなんてばかばかしいと思ってしまうほどの繁栄ぶりです。

 まだサファリラリ−始めとし、いろいろ面白いところもありますが、今日はこれ
くらいにしておきましょう。

 では次回は最終の”活動編”です。

               入間のEMOより     1990.2

#0021 sci4708  9001302122

      <<< JOCVスト−リ−5 活動編 >>>

 今回は「クイズ0点満点」風にやってみましょう。

 さて、キ−ワ−ドは4つです。   
    1.アジア諸国と2人3脚
  2.援助する側とされる側の論理
  3.人は城、人は石垣
  4.ノブレス・オブリジュ

【アジア諸国と2人3脚】

 東南アジアの人たちは同じ皮膚の色をした日本人が堂々と西欧にごしてひけを取
らない発展をしたのを頼もしく思っていたんですね。まるで一家の内から総理大臣
を出したか、エジソンが出たかという感じで。だから日本人になかよくやりましょ
う、ご一緒にと呼びかけてもらいたかった。それなのに、ああそれなのに、日本人
はバトンを持つと、人を突き倒し、かき分け、一人でかけていってしまった。転ん
でいる人を見ても知らん顔。こんな日本人評もどこからか聞こえてきそうですね。

  将来その国をしょってたつ様な人(政治家や技術者等)をどんどん日本に呼び、
反日派にして帰すのではなく、親日派にして帰すような制度を考える必要があるの
ではないでしょうか?

【援助する側とされる側の論理】

  援助する側としてはまず第1に”ノルマの達成”。すなわち、あまり儲けすぎる
とまわりが騒がしいのでしかたなく金をつぎ込む。統計上さえつじつまが合い、数
さえ合えばその効果は二の次。適当に援助して金を出して外からの非難をかわせれ
ばよい。この方法に従えば、確かに協力はしているが効果はそれほど上がらないし、
材料等も日本からの自前であることが多いので、技術の移転や育成にもほとんど効
果がない。

 そしてその段階から一歩進んだ”一括協力”の場合、時間的余裕がなく、またケ
ニアでの仕事上の経験も浅いため、工事の始めから終わりまでほとんど日本人スタ
ッフばかりが動き、現地の労働者と日本の材料を使って短期間に協力の成果をあげ
ようとする。日本の材料を数多く使うため、地場産業の育成やその地方に合った技
術による材料の生かし方や使い方を工夫しておらず、現地のスタッフの入ることが
少ないため、その工事の過程を通じて中間技術者の養成もできない。最も困るのは
メンテナンスで、ちょっとした部品でも日本から輸入しないと使えない、ちょっと
機械が狂ってくるともうだれも扱えなくなるといったことが起こる。

 最近はやりのプロジェクト援助。その国の実状を踏まえて調査・企画から建設・
維持までを一貫して行うやり方で、ある程度の時間をかけて現地のスタッフを交え
て工程をたてながら工事を進め、現地のスタッフだけでそれが扱えるようになるま
で1人か2人の技術者が残り、最後まで面倒を見るという方法がヨ−ロッパの援助
国ではかなり前から行われており、最近日本でも見られるようになった。現地で使
われている技術や材料をよく研究し、使えるものは使い・改良し、なるべくその国
の技術レベルにあったやり方を見つけ出す事が大切です。

 どうしても”援助する側”としては「してやっている」という意識が強く働いて
くるため背を反りがちになり、そういう態度は現地の人には「我々は乞食ではない。」
と反発を食らうこともしばしば。

「馬を川に連れてくることはできるが、水を飲ますことはできない。」

 ヨ−ロッパやアメリカの価値観に縛られない”彼らの独自のものさし”を早く築
き上げてほしいものです。

 援助される側の論理としては、我々は今まで大国の犠牲になってきたのだから援
助されるのは当然。また、昔からの彼らの生活習慣である「金持ちは貧乏人や親類
の面倒を見るのは当然である」という論理から、胸を張って援助させてやっている
という面もある。

 また日本人ボランティアがくれば、給料のいらない職員がきたというならよい方
で、支援機材や金が入るのをあてにしている例も多い。人の養成よりも物や金が入
って豊かになる方がよい。臨時の職員をただで雇ったようなものだという認識から
いつまでもよりかかってきて離れないということになる。

 ODA族というのが日本側にも現地側にもでき、ワ−と群がってくるのでそれに
振り回されてしまい、本当にその国のためになるのか、日本の企業のためなのか分
からなくなってしまう。日本の業者が調査・企画し、それを現地政府に売り込み、
うまく日本政府からの援助金を獲得できれば日本の設計事務所が設計、日本の建設
会社が日本からの資材をいれて日本人技術者と職人を連れて建設するというパタ−
ンとなります。その過程でフィリピンでもマルコス元大統領がやっていたように、
”ワイロ攻勢”ということになります。それは日本国内でも同様です。

 ”Give a man a fish and he has a fish for a day, but teach a man to fish 
and he has a fish for a life time.”

【人は城、人は石垣】

  いくら金を入れても、技術を移転しようとしても、要は人です。相手方がそれを
本当に望んで真剣になっていなければ、真剣に吸収しようという人、ひいては組織
がなければ、こちらがいくら真剣になっても無駄骨となってしまいます。
特に現地政府の役人の中には公然と賄賂を要求する者も多く、こういった事が行わ
れないよう、清潔な組織が窓口となり、金銭的な管理と共に技術的にもきちんとし
た監理ができるような人材が望まれます。

 また、特に発展途上国に非常に不足と思われる中間技術者(実際の仕事をきちん
とこなしていける人)の養成と研修が必要です。そのための学校や訓練校、そして
研修システムが必要でしょう。要求されるのはこれからの国造りに必要とされる人
材なのです。

【ノブレス・オブリジュ】

 ”身分にともなう義務”とでも言ったらいいのでしょうか。ただの”成金”で終
わらないためには、金を持てば持ったなりの義務が生じるということで、アメリカ
がフルブライト留学生として広く日本人学生を受け入れ親米派が増えたように、今
日本もアジア諸国に対して積極的に協力体制をとっておかないと大変なことになる
のではと心配です。ただ金を落とせばいいという事ではかえって逆効果となる場合
もあります。

 ”仏作って魂入れず”とならないよう十分気を付けましょう。

「ノ−と言える日本人」−−拒否する”ノ−”ではなく、バ−ゲン(交渉)を始め
るための出発点としての”ノ−”−−という本がアメリカの議会でも話題になった
そうですし、”ただ英語ができれば国際人”という考えから抜けでなければならな
い時期にきているのではないでしょうか?

 皆さんの意見をお待ちします。

 氏 名 : 松井秀男
  住 所  :  〒358 埼玉県入間市豊岡1−3−7

              入間のEMOより     1990.2

#0022 sci4708  9001302133

kita-3さん、メ−ルありがとうございました。
JOCVの事務局内部にもいたこたがあるそうなので、いいところ、悪いところ
もよく知っているでしょうし、いやになることもあったのではないでしょうか?

私の住む入間市では、市の児童館の人たちとOBで”ケニアの子供たちに文房具
を送ろう”ということで3年目も無事送ることができました。些細な力ではたい
したこともできませんし、本当にその国のためになっているのかと問われると、
なんともいえませんが、子供たちや協力してくれたお母さんたち、一般ボランティア
の人たちには少なからず影響があったように思います。くさの根的ではありますが
こういった1歩,1歩が大切なのではと思っています。国対国ではなく、人対人の
交流が大切と考えるきょうこのごろです。

  入間のEMOより。

#0023 sci2714  9001311558

  その文房具のお手伝いもさせていただきました。      kita-3

#0024 sci4708  9002012141

kita-3さん、こんばんは?
協力隊物語の転送のけんですが、どうぞご自由に。
現在私は、建築設備の事務所に勤め、自然エネルギ−の利用と設計の方法
について研究しています。
また、JOCVのOB,OGでアマチュア無線をしている仲間で、JOCV−N
ETというものをつくり、情報交換やメンバ−間の交流もしています。
ではまた。
      入間のEMOより。        1990.2.1

#0025 sci2714  9002021510

  EMOさん、転送の承諾をありがとうございます。

  自然エネルギーですか。
  地球防衛軍のコーナーにもそれに関連した発言がありますので、
  一度いらしてくださいな。トップメニュー4番(テーマ討論会)
  の中の、5番(自然・環境)のボードです。

  それから、このネットでは毎回基調発言が表示されて長い基調発
  言は電話代や時間に負担が掛かる事から、基調は短めにして詳し
  い話しは関連発言に移ってしようという、私には大変嬉しい生活
  の知恵があるようです。そこでお願いなのですが、このコーナー
  もどこかに引っ越しをして新たに開発援助のコーナーを作ってい
  ただけると嬉しいのですが。

  引っ越し先としては、トップメニュー5番の交流談話室が一番よ
  ろしいのではないかと思いますが、如何でしょうか。このフリー
  トークのボードは「科学フリートーク」という名前のように、科
  学についてのいろいろな話しをする場になっているようです。実
  は、基調一覧画面で k を入力するとボードの説明が出てくるの
  です。(これは秘密のコマンドらしく、知っている人は殆ど居な
  いようです)

  kita-3    (いつも勝手なお願いばかりして済みません。)