Edu00004 生徒に”基本的人権”はあるのか!? #0000 sci2913 8903191229 現在、マスコミでも体罰、校則が話題になっているように、学校(特に中学校) 生活における生徒の”人権”の軽視がとても気になります。 皆さん、この問題について徹底的に考えてみましょう。 #0001 sci2100 8903191800 人権侵害の事実について、ぜひ知りたいものです。 この問題を語るにあたっては、ヘンな話ですけれども、 「やる側」と「やられる側」の方々に、数々の事例を証言 していただくのはいかがでしょうか? 少なくとも、リクルートなんぞヘのごとくボコボコ出て くると思います(数の上だけですよ) ぼのぼの #0002 sci1304 8903192253 人権は無いといけない。 ただし、権利もあれば義務もある。と思います。 こまわり いかにも、教員的な発言だったかな。反省。 #0003 sci2100 8903192352 校則の抑圧の場合には、権利を主張し、いじめの問題においては それを黙認しないという義務を守ろうとする生徒などはかなり少 ないですね。権利もあれば義務もある、といった言葉は、乱暴なた とえをすればそういうことなのではないかと思っています(学校に おいては) 。 学校の解放を叫ぶ、インテリゲンツ予備軍のような生徒から、ド ロップアウト組にいたるまで、権利は主張しても義務に関しては言 及をあまりしないという現実は、ちょっと悲しいものがあると思っ ています。 こんなこと書いていても自分のことは言えない 言えない ぼの #0004 sci2913 8903200039 私が疑問に思うのは、やる側・やらえれる側という単純な発想でこの議論が深ま るのかどうかということです。 学校は、巨大な権力を持った組織の集合体であり、その権力を世間が是認してい たという事実が、この問題を考える上での大きなポイントになるのではないでしょ うか。 制服についても、運動会のプログラむについても、卒業式の式次第についても... e.t.c、まわりの大人が、あまりにも疑問を持っていないという事実こそが大きな問 題なのではないでしょうか。あるいは、問題意識を持ちつつも、口をさしはさんでは いけないとしている考え方が問題なのではないでしょうか。 #0005 sci2913 8903200051 教師のよく用いる説得法は、「義務を果たしてから自分の権利を考えろ」 ですが、本来、権利と義務は切り離して考えなければならないものです。 ですから「権利もあれば義務もある」という言い方には、とても危険性を感じます。 (私も教師です) #0006 sci1304 8903200114 やっぱり誤解を生んだようです。 私個人としては、当然義務と権利とは別個に存sci2913さんと同じく、義務 と権利は別個に存在すると考えています。 しかし、例えば中学生が自ら権利だけを主張する、というのはどうかな、とい う気持ちもあります。 こまわり #0007 sci1009 8903200124 じゃあ、体罰は絶対禁止ですか、それとも場合によって許されるんでしょうか? いつも議論になるところですが、わかりません。 とりあえず。 sci1009:狩野 #0008 sci2705 8903201055 中学や高校には服装などの面で厳しい校則のあるところが多いですが,私が塾や予 備校で教えた経験では,私服で通って来る生徒に華美な服装をしてくる者などいま せんでした.生徒は自然な成長の仕方をすべきだと思います.それを助けるのが教 育者の役割ではないでしょうか.異性に興味をもてば男女の愛やき方について問題 を提起し,ファッションに関心があるならコ―ディネ―トを共に考えればよいでは ありませんか. 子供より自分は上だ.という思いこみが人権問題の底にあると思います.なぜ, 子供も自分も同じ人間だというところから出発できないのでしょうか. H.H #0009 sci2914 8903201202 「やる側やられる側」という単純な図式が成り立たない場所もあれば 成り立つ場所もあると思いますよ。少なくとも、ひらきなおって、その ような単純な図式に戻さないと、それらをみすえることができない、と いう事実も、管理が非常に厳しい学校ではあると思います。 本質的には、傍観者(学校関係外)などの姿勢もからんでくるので、 そう単純ではないというのはわかりますけれども、たいていの場合、そ ういう見方が解決を生んだという事例を私は聞いたことも見たこともあ りません。 つまり、学校の問題を、やたら複雑にとらえても、子供にとっての利 益などさらさらない、というわけです。私なんぞ、教員がそういう複雑 なことを考えているうちに、もどかしさを感じて学校行かなくなってし まいましたけれども。 ただし、これだけはかなり言えることなのですけれども、学校における 人権侵害などの事例を出す場合には、なるべく単純な図式にもとづいてそ れらを提出した方がわかりやすいのです。私が、この上の方の関連に書い た「やる側やられる側」というのは、本質ではなく事実提出のため、と考 えていただけたら、と思います。 少々誤解があったようなので。 #0010 sci2914 8903201204 上の書き込みは、sci2100の ぼの です。 関連発言4に関連する発言でございます。 #0011 sci2913 8903202203 権利と義務について どうも、教師には結果を急ぎ過ぎる傾向があるせいでしょうか、つい「義務を果 たしてから権利を考えろ」と言ってしまうことが多いようです。 義務と権利は、表裏一体のものではなく、あくまでも別個のものとして、独立させ て考えるべきではないのかということをこの間書きました。 “不可侵、不可被侵”という言葉がありますが、生徒に権利意識をしっかりと確 立させていく中で押さえておかなければいけないことは、「自分の権利を追及する のと同じくらい、他人の権利を尊重しなければならない」ということではないでし ょうか。 もちろん、どんな集団においても、「小数の要求よりも多数のそれが優先する」 ことは否定できませんが、教育の場においては、小数の要求の背景を探ってみる必 要が生徒にとっても、教師にとってもあるのではないでしょうか。 りょうた #0012 sci2913 8903202204 体罰について... 教師の体罰は、教育基本法によって、禁止されています。 ですから、どんな場合にも、生徒をハタクとかはあってならないのです。 そして、すべての現職にある教師は、そのことを知っているのです。 考えてみれば、お互いに理解しあえるはずの人間と人間が力によって事を簡単に すませようという発想は、絶対あってはならないのですよね。 私の場合にも、たまに、怒りが爆発してしまい、そのたびに後悔するのですけれ ど...。自分の言葉の足りなさ、余裕のなさが情けなく思えます。 当たり前の話ですけれども、大人同士が意見の食い違いで殴り合いをしたり、罪悪 を暴力をもって解決しようとしたら、異常としか言えません。 **ある調査では、70%の大人が体罰を肯定しているという結果が出て、とても不安です** りょうた. #0013 sci2100 8903211333 70%の大人が体罰を肯定しているというのはすごいですね。 もし、学校が学習のためだけに存在するのであれば、そのような数値 は出てこないはずであると思います(もちろん、その調査は「家庭における体罰」 かもしれませんが)。 塾や予備校で自分の子どもが体罰をふるわれたら、たいていのおやはムッとし てしまう。しかし、学校で体罰をふるわれてら、たいていの親は「自分の子ども に何か原因が・・・」などと思ってしまう。 学校ーの過大な期待が、学校における体罰を容認していると考えるのは、適切 ではないかな? sci2100 ぼの #0014 sci2014 8903220241 「体罰」がどうのこうのというより、「厳しい校則」の方が問題なのではないですか? わけの分からないような校則を作って、がんじがらめにするよりも、普通に生活して いる時のルールを使ってそれに著しくはずれた時だけ注意するという形で十分なので はないのでしょうか?校則がほとんどなく、制服もない学校に通っている私はそう思っ ています。 Jumbo (高校生) #0015 sci2759 8903230943 どちらかといえば適切でないと思う. 塾で体罰をふるわれたら,ムッとくる前にやめちゃうだろう. 「学校」の問題点は教育を受ける義務があるからかどうかしらんが 強制的である,ところにある.公立がやなら私立にいけばいいとは言うものの 実際問題,中学から私立に行くというのは特殊なパターンだと思う. んなわけでもっと教育課程(というべきか?)に自由度をもたせて, つまり,選択の幅をふやして生徒からも学校を選べるようにしたらいいと 本当に思う.中学校の場合,特にそう思う. それと体罰容認の大人というのは子供が多少乱暴されてもあたしと関係ないわ と思っているに違いない. 私は中学を何年か前に卒業したが,もう今更,中学の校則が厳しくて とか体罰があって生徒に悪影響があったとしてもはっきり言ってどーでもょぃ. そこらへんの大人の教育に対する見方を教育しなおす必要があると思う. 教育って人類の将来にとってもっとも大切なものだと思うし. David #0016 sci2722 8903231405 義務制の小・中学校を軸とする学校教育は、強制教育であるから、元々生徒児童と いうのは、人権が認められているものかどうか疑わしい。 強制によって身柄を隔離されている受刑者や兵隊は、人権をナイガシロにされてい るわけだが、強制的な制度の下に置かれる生徒児童は、現実に受刑者や兵隊と同じ 様に扱われている。それが学校教育現場に現れる人権侵害である。 教育の場で「人権」の「侵害」などという問題が起こるのは、こどもにとっては逃 げ場が無い事が最大の原因で、先生個人個人の問題では無いのは言うまでもない。 学校という枠組みを認めた上で議論をすれば、権利と義務が対応語であるかの如き 議論や、人間として生徒が一段低いかのような論調が罷り通ることになる。 義務制は強制と言い換えた方が正確である。フィギュアスケートの伊藤みどりさん が世界選手権で優勝した。フィギュアにある規定と言う競技は、コンパルソリーと 言うが、義務教育はコンパルソリーエデュケイションで、強制教育の意である。 スケートのコンパルソリーはフリーと対応しているが、普通コンパルソリーはボラ ンタリーと対応しているように思う。 義務制下の登校は、自由意思による登校と対応している。 ほとんど総ての学校問題は、制度的な腐敗が原因なのだから、制度の変更が必要と 思う。義務教育が日本で始まってから百年以上経った。今が見直しの良い時期かも 知れない、と思うのだが。 私は、学校から義務制を取り外すのが良い.と思っています。 谷口。 #0017 sci2100 8903240131 現実はどうあれ、義務教育の「義務」という言葉がどのような 意味をもっているかということは、これはまったく単純な話 で、「子どもが教育を受ける権利を親が保障すること」と、親に 義務をおわせるということであって、子どもが教育を受けな ければならない、ということではないのです。 このへんに関しては、文部省の人間も言っていることです。 誤解しているのは、親と子と教員なんですね。 ぼの #0018 sci2876 8903240325 児童生徒は学校に行かなければならない義務を有するものではありません. 関連発言で,生徒の義務うんぬんを言われる方がおりますが,具体的にどう ゆう義務のことを指しているのでしょうか. また,児童生徒に人権が認められるのは明かであり法学会においても全く争 いがありません. 受刑者の人権は現行法上,住居の自由等について制約を受けます.しかし それは最低限の社会秩序を維持するために必要不可欠だから許されるのです. 一方,生徒児童の人権を制限してまで維持すべき利益など考えられません. また,殺人犯人に対してさえ暴力をふるうことが許されていないのに,いた いけな子供に暴力をふるうことがどうして許されるのでしょうか. 生徒児童を殴る行為は暴行罪にあたります.怪我を負わせたら傷害罪で, 10年以下の懲役です. のびた #0019 sci2759 8903240905 なるほと゛,私の義務教育の解釈はまちがっとったようです. われながら,あさはかな書き方をしてしまいました. でも,自分の好き勝手をやる教師ってのは(また,卒業文集に成績表をのせた バカな教師が表われましたが..)ちょっとやそっとじゃ 生徒は自分の権利を主張したりすることはねーだろ,と 思っているに違いないと思います. つまり,世間の構造としてアホな教師にあたっちゃったら 忍の1文字で耐えるしかない,あきらめたほうが利口だ,というのが 定石というか,一番無難なパターンとなっちょるわけでしょう. その世間の構造が別の言い方をすれば,強制的,であると. 偶然にも義務教育たる中学において,ですよ. 繰り返しますが,保護者側に人権意識が(理路整然とした)足りないのではないか とやっぱり思う. #0020 sci2759 8903240909 只今の発言………… DAVID #0021 sci2100 8903241731 義務教育制度が成立した過程には、富国強兵という政府の企みもありました けれども、現在における「義務教育」の正確な解釈からすれば、義務教育とは 「子どもが学校に行かねばならない」という意味で成立しているわけではない ことは、明白な事実です。しかしながら、現実的には、「義務教育」という言 葉の上っつらだけ取り、「義務義務=子どもに対する法的義務」と直線的に考 えて、「中学までは子どもは学校に行く義務がある」と堂々と生徒に言ってし まう教員がいたりします。知ってか知らずかはわかりませんが、このあたりは 警察官が警察官職務執行法を知らなかったりするのと非常に似てたりします。 私は、中学校の頃、「義務教育だから学校に来なければならない」と言われ たことがありましたけれども、「では、教育基本法を正確に解釈なさって下さ い」と言ったら、その後何も言ってきませんでしたよ。ようするに、まず「義 務教育」の義務が誰にかけられているのかというと、それは親であって、子ど もではないということをしっかりと把握する必要があると思います。 平易な言い方をすれば、「子どもが、教育を受けることを希望する場合、親 はそれを受けさせなくてはならない」ということですから、原則としては、強 制ではなく、子どもの権利を明確にするものであります。つまり、義務教育を 無くす、という意見がありましたけれども、もしそのようなことが実際行われ たら、逆に子どもの権利がせばまってしまうわけです。原則的には。 いわゆる「義務教育」の問題は、法的な問題であるわけではなく、そのほと んどが誤った解釈をひけらかし、子どもに強制をする教員と親の問題ではない でしょうか? 義務教育の原則を知っているならば、「何てバカらしい」とも 思えるようなことだと思います。 教員に「おまえらは義務教育だから学校にこなければいけない」と言われて、 結果的に従うも反抗するも、その言葉を簡単に信じてしまう親や生徒がバカを 見ているだけではないでしょうか? 学校の選択の幅、という点については、義務教育が問題とは言えないと思い ます。むしろ学区制に問題があるのではないでしょうか? それともう一つ。「教育は国のため」ということをおっしゃった方がいまし たけれども、それはどういう意味なのでしょうか? 「国のため」というのはどのような脅威になるのでしょうか? どの国にお いても、公共制度は、それを必要とする目的と計画に基づいて行使されるもの であって、当然それ自体が「国のため」であります。水道を引くのも、道路網 を整備するのも、「国のため」という考えは成り立ちます。 よく、「国のための教育は、軍国主義につながるから危険だ」とおっしゃる 方がいますけれども、そんなことを言ったら、日本中に張り巡らされている道 路が、「有事の際には戦車が通って進撃できるから危険だ」と言うのと同じに なってしまいます。私は、そんなことを考えたので、「国のため」を挙げたと ころでどのような問題点が出てくるのか想像できないのです。 確かに、君が代や日の丸という問題も存在します。しかし、私はそのような 問題が「国家のための教育」が行われているから出てくるのではなく、過去の 戦争のシンボルでもあった記号を出すことの政治的なまずさ、そして国歌と制 定されていない、某千代田区の先祖が**だったという家族の歌を、公共の場 所で歌えとしている理不尽さの問題だと思うのです。そのへんは、区別して考 えないと、すぐに足もとをすくわれそうな気がするんですよね。 話がズレてしまったかな。 SCI2100 ぼの #0022 sci2913 8903260004 体罰に70%がが肯定している、と書いた中の”体罰”とは、家庭内におけるもの ではなく、あくまでも学校教育(体罰がきょういくだとは思えませんが)における ものです。 多分、この結果は ぼの さんの主張どおり、道徳的なものだとか、躾的なものを 学校に期待していることの表われでしょう。 私自信も、道徳的なこと・躾的なことを学校は全然やらなくてよいとは思ってい ません。学校の一番大きな存在理由は、現在では、教科教育を詰め込むためではな く(もちろん、現実はこれが中心です)年齢に即した自治意識を通し、社会性を身 に付けて行くことだと判断します。こ 現実には、個人的な躾面(朝自分で起きる・勉強をするe.t.c)や、家庭の権限だ と思われること(リーゼント・夜の外出e.t.c)など、学校で規制すべきではないこ とが、多数の父母から相談を持ちかけられ、学校権力が規制する方向で進んできて いるのです。 どうか、これらのことを、「親の権威の失墜」だと一言で片付けないでください。 親や教師の心の揺れ動きの中で、一番悩んでいるのが、一番耐えているのが、実は子 供達なのです。 我々教師全員が、現象面に捕われず、「子供の心」を最優先して考えて行けるよう になれば、教育も少しは進歩するのですが.....。 Jumbo さん、多分解ってくれると思いますが、”体罰”も”校則”も、同一直線上 にあることなのです。どちらも、子供の心を全く考えていないことが問題なのです。 ちなみに、1970年、私の中3の頃、大多数の公立高校は私服でしたし、中学校で体罰 など皆無、とてもおおらかでした。生徒の考えを認めようという先生の気持ちが伝わ ってきました。いつからこんなになってしまったのでしょう? #0023 sci2722 8903261621 基本的人権は、文部省や法学会や学校などの権威が認める・認めないに係わらず、 その人に元々備わっているものだから、権利一般と分けて考えた方がいい。 「すべて国民は法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさ せる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」憲法第三章二六条の後半部分 就学年限は該当する法律に依るわけだから、中学校三年間の義務制を外すのは、法 律改正だけで済む。しかしそれはあくまでも法的に済むだけで、日本人成人のほぼ 全員が義務教育を了えている現状では義務教育に対する信仰は厚く、疑問を持つ人 間を捜すのさえ難しい。 憲法や関連法律、政府や教育関係者だけで無く、保護者や世間一般の義務教育信仰 を含めて、その全体を「義務制」と仮に呼んでおくと、〔こども〕に通学する義務 が有るか無いか.と言う議論以前に、義務制が先ず〔こども〕を学校へ追い遣ると 言う現実が理解出来るだろう。 谷口。 #0024 sci2722 8903261723 議論の前提となるいくつかの事柄を、少し整理したい。ぼの氏の話は、ずれてはい ない。 ぼの氏は、教育を受けるのは子供の権利と考えている.私は国家が押しつけている もの.と考えている。(良いか悪いかの議論は未だ。)・・・個人の為:国の為。 「義務教育」の問題は、子どもに強制をする教員と親、つまり個人の考えや資質の 問題だと考えている.私は制度的な問題だと考えている。・個人の質:制度自体。 質の悪い教師との体験から、教育問題を教師個人の資質や親の考えに還元するのは ぼの氏にとっては正しいのだろう。私のこの問題へのかかわりは、登校拒否.イジ メ.ツッパリなどの問題が、個人のせいにしては解決しきれない.と言うところか ら出発した。 相手を、仲間か敵かに分けないで、ゆっくりと議論を進めようと思う。 谷口。 #0025 sci2470 8903270217 体罰について 体罰が教育的効果をもつのは罰をあたえる側と受ける側のあいだに信頼関係 がある場合のみであって、そうでなければまったく逆効果しかない。 また、 けがをするほど殴るのも教育的にはまったく無意味である。 そんなこともわ からないプロの教師がいるとは思えないので、世間でよく問題になる体罰は厳 密な意味では教育の問題というより、学校で起こる暴力事件と考えたほうが理 解しやすい。 ただ、不当な体罰を受けても「おかしい」と感じないような子 どもが増えてくるのが重大な教育問題だとおもいます。 基本的人権について 法律の問題ではなく実際問題として「生徒に基本的人権はあるのか」という 問いは「サラリーマンに基本的人権はあるのか」に似てむずかしい。 社会生 活をしている以上、完全に自由という状態はありえない。 「国のため」とい うと君が代・日の丸を連想してしまうが、「社会のための教育」という面は絶 対にあるので、集団生活の訓練という意味でも、ある程度の強制はありうると おもいます。 その「ある程度」の運用が最近非常識におもえます。 (k) #0026 sci2100 8903280202 関連発言23に関して少々思うことがありました。 以下に、そのことに関して書き出します。 F人権について 基本的人権を、その他の権利一般と分けて考えるという考えは、私に とっては理解しにくいことです。基本的人権がもともと備わっているも のとはどういうことなのでしょう。 「基本的人権」とは、人間に元々なかったからこそ、それが法律とい う形によって明確に規定される必然性があるということは明白な事実で す。 「部落を差別するな」という言葉が、部落を差別している状況がある からこそ存在するのと同じで、「基本的人権」という言葉も、人権が存 在し得なかったからこそ、その言葉と法律により規定される必然的理由 があったのです。これは、当然といえば、当然すぎることです。 基本的人権にせよ、その他の権利にせよ、かような必然性に基づいて 法律によって保障されていることであり、それを元々備わっているもの と言ってしまうのは、近代社会から現代社会に至る人間の人権に関する 解釈に対して、揺さぶりをかけるものでさえあります。フランス革命や 名誉革命でさえ必要ではなかった、ということになってしまいます。そ のような、最低限の人間の権利としての「基本的人権」を、他の権利と 分けてよいものでしょうか? 少なくとも、関連発言23にある「(基本的人権は)権威が認める・認 めないに関わらず元々備わっている」という書き方は、そのような方向 性をもって解釈されても仕方がないものだと思われます。ある意味で、 そのような認識は危険でさえあるように感じます。 基本的人権の存在は、常に意識的に考慮すべき問題だと思います。 これらはは、生徒の権利であろうが大人の権利であろうが、権利一般 を議論する場合には切り離してはいけないことだと思います。 この基調における「生徒の人権」ということに関しては、それが守ら れているのだろうか? という疑問から開かれたものと私は考えており ます。確かに、実際の生徒の人権は(現実的には)認められていないと 考えてよいとは思いますけれども、だからこそ法律が必要であり、また そのための法律が存在することを無視せず、それを遵守する方向へ考え てゆく必要性があると思います。 学校の先生が、「おまえは学校に来なくていい」と言ったら、どうし ますか? 学校が好きな子は、教育を受ける権利を主張するでしょう。 義務教育であるから、それを主張することができるのです。 義務教育は、子供が教育を受ける権利であるとして、「高校までを義 務教育にせよ」と言っている人さえいる事実を、気にとめておいてほし いと思います。基本的人権と、義務教育。これらがダブルで誤解されて いることに問題があるのではないでしょうか? 義務教育は、子どもに対する義務ではありません。それが、押し付け てあるならば、それは親に対して押し付けられるものであるのです。こ れは、「考え」というレベルのものではなく、ちゃんと法律的に定めら れている問題であります。 繰り返しますが、義務教育の問題とされているものは、そのほとんど が「誤解」に基づいたものであると考えます。これは、教員や親の資質 以前の問題でしょう。それが、当り前になってしまっていることに関し て脅威を感じるべきだと思います。これらの問題を「制度の問題だ」と 解釈することによって、一番得するのは誰でしょうか? 言うまでもなく、誤解している人たちではないでしょうか? F日の丸・君が代の問題と、校則・体罰の問題 私は、学校におけるすべての問題を、教員などの個人的問題に帰結さ せることは考えておりません。例えば、日の丸・君が代という問題に関 しては、あのような政治的にも問題があるシンボルを、公的に、制度に、 その中に取り入れようという動きがありますので、それを教員の個人的 資質などに帰結させるのは無理があります。 しかし、学校の校則で、本当にバカバカしいもの。例えば、ミリ単位 で髪の長さを規定したり、靴下の色を指定したり、下着の色まで指定す るということ。これらの、本当にバカらしいもの。政治的な問題などと いうレベルではない問題。これと、日の丸・君が代を一緒にしてそれら すべてが「制度の問題だ」というのは、私には乱暴に思えるのです。体 罰もしかり。文部省は、その権威(?と、しておまきしょう)において 「日の丸・君が代」を強制する方向をいままで何度も打ち出してはいま すが、いまだに「体罰を強化せよ」ということを打ち出したことはない はずです。このへんに、制度的問題と教員や親たち個人(大多数の個人 の集約でも、それが制度として解釈し得るものではないので、このよう な言い方をさせていただきます)の誤解の集約、つまり体罰や規則に関 しては、それぞれの個人の誤解ではないのだろうか? という捉え方を する必要があると思うのです。このへんは、繰り返しになってしまった ようです。 F登校拒否・ツッパリ・イジメ この基調とは別に議論すべき問題だと思いますが、関連にあったので 私の考えの一端を書き出しておこうと思います。 登校拒否・ツッパリ・いじめ。これらに関しても、私はそのほとんど が個人的な問題だと思っています。 私が詳しく述べられるのは、登校拒否といじめだけでありますが、そ の中の登校拒否に関して、少々述べてみたいと思います。 登校拒否。これは、学校における競争、いじめ、人間関係か らの回避行動としてとらえることができます。それ自体はまったく正当 なことです。実際、私も登校拒否を3年ばかりしていましたので、これ が純然たる回避行動であるということは、私自身の経験、友人の経験か らも、言えることだと思っています。さて、この回避する理由は、学校 の制度的な問題でありましょうか? 私はそうは思っておりません。世の中のメディアが多種多様化すると 共に、人間関係の単位もますます多様に、少人数に、流動的に変化して 行きます。最近の子供が、「クラス」という言葉を使わずに、「グルー プ」という言葉を使うことからもそれは納得できます。というわけで、 私は登校拒否という行動は、それ自体が問題とされるのは不当であり、 彼ら(そして私自身)の行動を、グループへ入れないにもかかわらず グループに入りたいという欲求の反動だと考えております。登校拒否は、 クラスにあるそれぞれのグループに合わせられない子どもの、一つのグ ループの選択だと思うのです。たまたま、学校以外の場がなかったりす るものですから、グループができないので眼には見えないのですけれど も。 実際に、登校拒否をする子の中には非常に独特の能力を発揮する子ど もがいます。このような子にとっては、その能力や感覚を発揮する場が 学校に存在しない。誰も認めない。それ故に自分のアイディンティティ が危うくなる。本当は、その場がたまたま学校にないだけにもかかわら ず。 そんな彼らに対する反応は、「学校にも行かないで」あるいは「学校 に行けないのは制度の問題だ。かわいそうだ」・・・。どちらにしろ、 「子どもは学校へ」という共通の先入観が存在します。どちらにしろ、 彼らは、本来はこだわらなくていいのに、それらの言葉によって「学校」 に過度に反応します。そして、自分を値引きする。「学校に行けない自 分はダメだ」・・・しかし、彼の年収は、中学生で80万ぐらいだった りします。パソコンやらワープロやらで。よっぽど、彼の方がまともだっ たりましす。しかし、「学校」という先入観は、それを打ち砕きます。 彼らを苦しめるのは、学校に対する「先入観」「誤解」であると思うの です。「学校は強制である」という、愚かな俗論。 私たちは、学校に対してどのような先入観があるのか? 義務教育に 対してどのような誤解があるのか? そして、どの点で、私たちは「制 度のせいだ」と言って、自分たちが変わること、知ろうとしていること を拒否しているのだろう? 生徒の基本的人権を考えるときも、まず自 分はそれをどのように考えているのか? 誤解はないのか? というこ とを一つ一つ検証する必要があると思います。もちろん、私自身もその 検証の作業を終えていませんし、これからも続くことでしょう。 これは、あらゆることに言えることかもしれませんが・・・・ 「私は私の意思で動いているのではない。何者かによって動かされて いるのだ」 という言葉を選択している自分が、その言葉を捨てない限り、変わる ことはないと思います。不本意でも、そのような言葉が「逃げ」である かもしれないと疑ってみると、ずいぶん見方が変わったりするものだと 思っています。「制度のせいだから制度を変えろ」という言葉は、日の 丸・君が代などには言えても、教育基本法には言えないことではないで しょうか? 誤解されている法律がかわいそうです。 「学校の管轄はどこまででしょうか?」という基調がありますけれど も、あれは、私自身が学校の機能に対してどのような誤解をもっている のかということを明かにしたいと欲する部分もあり、開かせていただい たものであります。ぜひ、皆さんの「学校に求める機能」をお書き添え いただけたら幸いです。 ≡≡ sci2100 ぼの P.S 「いじめ/登校拒否」と「ツッパリ」は、全然違うことを 確認する必要がありませんか? 前者は学校に行きたくない、後者は、学校という場にお いて力を誇示したいという欲求に基づく行動。この差異を 無視して、いっしょくたにすることはヘンだと思います。 長くてすみませんでした。 #0026 sci2913 8904032011 〇基本的人権は、本来備わっていなかったか? 人が人として生きるに最低限必要な権利を“基本的人権”と呼ぶのだと思います。 “基本的人権”は相対的なものであるということでしょう。時代と共に変わる ものであるはずだし、我々が持つ文化とも関連して行くのではないでしょうか。 こう考えると、古来から“基本的人権”は存在していたと考えたほうがよいで しょう。問題なのは、時の権力者によって“差別構造”が産み出され、弱者に対 し“基本的人権”を認めなかった場合が多かったということではないでしょうか。 だから“法”で規制する必要性が生じてい 〇同和問題について 同和問題も“基本的人権”の無視、あるいは軽視と言う点でこの基調と一致す る部分があると思いますが、その歴史的な捉え方の誤りや、認識のずれ(へたを すると他人ごとになってしまう)など、集中した討議が必要だと思われますので、 別の基調に基づいて討議が行われたほうが 個人的には、比較的に誤解が少ないであろう「沖縄・日の丸・君が代」(基調 9)から入って行ければと思っているのですが...。 同様に、在日外国人差別問題も、我々が直接抱えている問題として考えて行かね ばならないでしょう。 #0027 sci2320 8904172256 千葉の学校は「人権」なんてないよ. でも,そういう学校では「教師の人権」もないみたい. 日教連はなんとかならんか/TOMMOMI #0028 sci2100 8904190615 2913さま。 私の捉え方がズレていたらごめんなさい。 ただ、「基本的人権が古来から存在していた」という言葉には 同意できません。 基本的人権に関して、どのような切口からおっしゃられているのでしょうか? 私は、基本的人権は”法”によって設定されているものだと学んだもので..。 ≡≡ sci2100 ぼの ≡≡ #0029 sci2100 8904190616 つけたしが多くてごめんなさい。 つまり、基本的人権とは、歴史的に見ても、非常に近年に設定(成立とは いえないでしょうから)された法であり、概念だと考えているのです。